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白銀歴1205年5月DD日 10:40

LPSD本部・来客用ラウンジ昼から別任務があるアンナの都合に合わせ、打合せは11:00〜11:20に設定された。

竹娘と兎娘は少し早めにラウンジへ入った。

1204年末のベスティアリウム事件での合同会議以降、竹娘と兎娘はアンナと定期的に情報交換をするようになっていた。


竹娘にとって、「誰が敵か分からないLPSD職員」の中で、アンナは早い段階で“信頼できる味方”だと判断できた人物だったからだ。


王室とLPSD──

互いに協力し、内部のウラガネビトを排除する。

彼女たちには明確な利害の一致があった。


しかし、この日は一抹の不安があった。

つい先日、アカオニの犯罪者集団「司馬鬼隊(しばきたい)」──


ベスティアリウム製の薬剤で身体能力を強化した“異常者集団”の鎮圧作戦で指揮を取ったアンナが重傷を負った、
そんな情報が竹娘の耳に入っていたからだ。


竹娘

(……アンナさん、大丈夫だろうか)


「月京さん、餅月さん、こちらです。」


奥からアンナが姿を見せた。

外傷は見当たらない。

しかし竹娘は、その横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

「……アンナさん。この前の司馬鬼隊との戦い、、、」

アンナは軽く笑って見せた。

「大丈夫、危ないところだったけど総監が出張ってくれたの。

怪我した私の手術まで手配してくれて──」


その右目がわずかに光を反射した。

竹娘は気づいた。

(……義眼だ。しかもただの視覚補助じゃない。

 外部出力の“隠し機能”がある──志津摩医工製 AIC-12《オルタ・アイ》系統……

 アンナさんは恐らく知らない。

 耳周りの手術痕……人工鼓膜に置き換えている可能性もある)


つまり──

アンナが見聞きする情報が、

常にLPSD上層部へ漏れている可能性があるということだ。


竹娘は即座に判断した。

(……ここで普通に話すのは危険)

「……ここ、少し“風通し”が良すぎる気がしますね。

 アンナさんの直近の課題を……差し支えない“方法”で教えていただけますと。」


アンナは一瞬だけハッとした表情を見せ、ゆっくりと口を動かした。

声は出さない。

竹娘は読唇術で読み取る。


アンナ(口の動き)

「総監から私に勅命。

 灰堂と白波の悪事を暴く。

 私は警部補ではなく、秘密部隊“隠密”として単独で動く。」


アンナは義眼の外部出力のことなど知らない。

しかし竹娘の言葉を「盗聴の可能性」と受け取り、声を出さずに伝えた。


竹娘は小さく頷きアンナの手に触れ、触覚で短い信号を送る“モールス式の通信”で伝える。

(情報屋アンダー・リリーとのコンタクト方法を送ります。

 今から伝えるパスに置いてある電子データを3Dプリントしてください。

 点字の文章になっています。

 ……そして今から揺さぶりをかけるための“王室のデタラメの活動計画”を話しますね。)


竹娘は口を開いた。

「やっぱり、言えませんよね。変なこと聞いてごめんなさい。

 こちらも何か分かったらまた連絡いたします。

 そして今、王室が追っているのは蔓月司法院の裁判官の腐敗疑いです。

 不法入国の異星人によるルナルナ領内で殺人が増加、そしてその全てが不起訴か無罪…

 最低でも強制送還、あるいは法にのっとった刑の執行を、との声が多くてですね…。」


そのとき──

ガンッ!

巨大な対物狙撃銃のバレルがドア枠にぶつかり、木材が悲鳴を上げた。

「お゛あ゛っ、ヤッベ、始末書?給料天引?」

竹娘は思わず目を見開いた。

(……この人、もしかして……)

記憶の中で、世界大会の表彰台がよみがえる。

オリンピックをはじめ、直近数年の射撃競技で1位を総なめにした男──

その立ち姿と銃の扱い方は、竹娘の記憶と寸分違わなかった。

狐塚は慌てて銃を抱え直し、アンナへ駆け寄る。

巡査

「警部補ぉお、すんません、休憩所で寝てましたあ;

 って、あ!お、王室の!

 ご苦労様っす!

 自分、狐塚(こづか)っつーモンです! 22歳 ヒラ巡査!」


片手で名刺を差し出す。

竹娘

(やっぱり……“あの射撃王”。。。)


アンナ

「こ、コラ! 来客への口の聞き方じゃないでしょ。

 “ご苦労様”は目下にしか使えないから、“お世話になります”と言いなさい。

 名刺は両手で渡す! 名乗る時は部署名も忘れずに!」


狐塚

「へ〜い。でもこの子達、年下っすよ?

 それに、俺だってオリンピック制覇して、“隠密実技試験”まで行った天才すー。

 ……まあ最後に落ちましたけどね、ははっ。」


アンナは一瞬だけ目を見開き、狐塚の袖をそっと引っ張って、小さな声で囁いた。

アンナ(小声)

「コラ……“隠密”は外部に公開してない秘密部隊なの。

 口にしちゃダメ。」

そしてすぐに竹娘と兎娘へ向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。


竹娘

「お気になさらないでください。

 それより……先日は、お家に招いてくださってありがとうございました。

 お母さまの料理、とても美味しかったです。」


兎娘

「本当に。あんなに優しくしていただけるなんて思ってなくて……。

 ハルさん、すごく素敵な方ですね。」


アンナは一瞬だけ驚いたように目を丸くし、すぐに照れたように笑った。


アンナ

「母が喜びます。

 あの人、誰かをもてなすのが好きなんですよ。」


その横で、狐塚が「え?」という顔をした。


狐塚

「え、警部補の家に……?

 俺、呼ばれてないんすけど。

 あれ、もしかして……俺が最初に行った日より前?

 だったら先日ってゆーてもだいぶ前すね。」


アンナ

「ちょ、ちょっと、そういう言い方やめなさい。

 し、し、仕事の話で来ただけでしょ。」


狐塚

「えぇ…?

 あん時は大事な話があるって、

 でも確かに仕事だけでしたね、あの日は。

 ……いいなぁ。

 俺もハルさんの料理食べたかったなぁ。」


竹娘と兎娘は思わず視線を合わせた。

(……この二人、仲良すぎない?)


狐塚

「そういえばお二人さん!

 “あのハンドガン”、ヤバかったっしょ!?

 総監が警部補に授与したやつ!

 あれ、超レア物なんすよ!」


兎娘

「ハンドガン……?

 リビングや玄関には無かった気が…」


竹娘

「私たち、話に夢中で目に入らなかったのかもしれませせん。」

狐塚

「んもー!

 警部補の部屋に飾られてたヤツっすよ!

 長いバレルの“静音仕様”の回転式拳銃。

 あれ、めちゃくちゃ稀少価値あるんすよ。」

アンナ

「ちょっと狐塚君、部屋の話をここでするのはやめなさい。」

狐塚

「す、すみません!

 ついテンション上がっちゃって!

 でも銃の話は……いいですよね?

 黒騎工廠(Kuroki Armament Systems / KAS)製なんすよ。

 あそこ、銃本体は基本、自動小銃と軽機関銃しか作らないじゃないすか。

 でも、あの回転式拳銃だけは“特別製”。

 昔、極秘任務用に試作されたプロトタイプらしくて、狙撃銃にもなるんす……

 博物館級っていうか、本当にすごいんですって!」

アンナ

「…そ、それもやめなさい。

 LPSD専用品で、納入仕様書も機密扱いなの。

 外部に言っちゃダメ。」

狐塚

「え!?

 へ、へい……すみません……!」

竹娘と兎娘は、

狐塚の興奮とアンナの慌てた制止を見て、

思わず視線を合わせた。

(……この二人、仲良すぎるどころじゃなくない?)

そのまま他愛もない世間話をし、打合せは終了した。

ラウンジの外。

アンナ・狐塚と別れた竹娘と兎娘は、任務へ向かう彼らの背中を見送っていた。

「狐塚君、昼からの私たちの任務、覚えてる?」

「隣国マフィアのアジトに潜入でしょ?

 だから、これくらい、持っとかないと。」

「そんなの持ち込めるわけないでしょ!

 怪しまれるに決まってるでしょ!」

「なるほど。失礼しやしたぁ!

 メモしておきます!!

 

 あ、メモ帳、警部補の”好きなぬいぐるみキャラ”を書いて以降、使ってなかったみたいすわ。」

「や、やめなさい!!!」

「えー、メモを!?」

「メモは取りなさい!」

「えぇ…?ちょっと言うことコロコロ変えんといてくださいよー。刑事部長じゃないんすからー。」

竹娘と兎娘は、思わず笑ってしまった。

決別

白銀歴1205年5月DD日 08:10

総監室の奥の棚には、

一枚の写真立てが置かれている。

アンナと総監が並んで写っている写真だ。

表彰式の壇上──

総監から“静音回転式拳銃”を授与時のもの。

アンナは満面の笑みで、目には涙が浮かんでいた。

総監はその写真を、

いつもは丁寧に手入れしている。

埃ひとつ許さないほどに。

だが、この日の総監は違った。

総監は写真立てを見つめ

何のためらいもなく、その写真立てを バタン と倒した。

ガラスが机に当たり、乾いた音が室内に響く。

危機

「……AIC-12義眼、外部出力を検知。

 映像ハック、成功しました。」

オペレーターが息を呑む。

竹娘への専用回線が開かれた。

オペレーター

「月京様──隆宗警部補の義眼からリアルタイム映像が入っています。

 総監室に呼ばれた様です。

 ……様子がおかしい。至急確認を。」

竹娘は一瞬で理解した。

(……総監がアンナさんを……)

青イ竹のエージェントは全員別任務で不在。

赤イ兎の実働部隊も、兎娘もいない。

通信網の中で、竹娘だけが即応可能だった。

竹娘

「……私が行きます。

 LPSD内部へも共有を!」

オペレーター

「了解。

 LPSD内部の“善玉”協力者へ映像を共有します。」

竹娘はイヤホン型の小型端末を装着し、

アンナのインプラント映像の音声だけを聞きながら走り出した。

(どうか間に合って──)

総監の裏切り


総監室は静かだった。
黒院・白波・灰堂の三人が揃っているだけで、空気が重く沈む。

アンナは震える手で資料を抱え、それでも師を信じる瞳で黒院を見つめていた。

アンナが証拠を差し出す。

「総監……白波副総監と灰堂公安部長の裏取引の証拠です。
 これは……見過ごせません。警察の責務に反します。」


そこに記されていたのは複数の

• 財団
• 魔獣密造プラント
• 政治家
• 大手メディア
• 国際犯罪組織

に対する

• 捜査情報の横流し
• 監視映像の提供
• 内部告発者の特定
• 証拠の改ざん
• 押収物の横流し
• 事件の揉み消し

のログ。


黒院は書類を一瞥し、ゆっくりと口角を上げた。

「……素晴らしい。こうやって証拠を掴むのだな、アンナ君。」


アンナの胸が少しだけ熱くなる。
師に褒められた──その事実が嬉しかった。


黒院は続けた。

「情報屋《アンダー・リリー》との非公式接触。LPSD外の市民ネットワーク《ブルーライン》。
 匿名通報AI《C-OWL》。そして、君が独自に築いた“現場の信頼”。
 ……どれも見事だ。」


アンナは息を呑んだ。

自分が使った合法ギリギリの情報網を、黒院はすべて把握していた。

「総監……ご存知だったのですか……?」


黒院は優しく微笑んだ。

「もちろんだとも。君がどこまで“使える”か、”司馬鬼隊と戦った時”からずっと見ていた。」


(私の右目が無くなった日……)
アンナの背筋がわずかに震えた。

黒院は書類を指で弾き、机の上に落とした。

「だが──悲しいな。
 リリーもブルーラインの連中も、君の“正義感”のせいで死ぬんだ。」

アンナの心臓が跳ねた。
「ど、どういう……意味ですか……総監、あなたは──!」


白波が眼鏡を外し、灰堂が肩を揺らして笑う。

「そんなことも分からぬほど馬鹿なのかね?アンナ君。
 君が用いた捜査網は、我々の利権の邪魔になるから排除する…それだけのことですよ。」


アンナの膝が震えた。

「そ……そんな……総監……あなたは……彼らを告発すると……私に」


灰堂が冷たく言い放つ。
「隆宗、直属の上司として辞令を出そう。

 お前は今日付で“廃棄処分(おはらいばこ)”だ。

 一度たりとも考えたことはなかったかね?
 君がサイボーグ化した部分の情報が、私たちに筒抜けだったということを。


 君の心拍数も、睡眠ログも、狐塚君と話す時の脳波も全部見ていたよ。
 …かわいらしいものだ。
 “恋をしている女の子”の反応だ。
 それも、”思春期程度”…の、な。」


白波
「交際もしてないのに、狐塚巡査に婚約を申し込んだのには笑いましたよ。
 受ける彼も彼ですが。
 あの馬鹿、仕事だけでなく、色恋も不得手らしいですねぇ。」


灰堂
「昨日の夜は酷かったな。
 彼に腕枕を要求しておきながら、彼の要求に対しては お預け にするとは。

 職威迫、性威迫として、ハラスメント被害支援機構に通報しようかと思ったよ。」


白波
「そんなぁあ、警部補ぉー、俺もう我慢出来ないっすよぉお。
 でしたか?笑


 狐塚の馬鹿、警官より芸人にでもなった方が良いんじゃないですかね?」


2人の嘲笑するかの様な会話に、アンナの胸が締め付けられた。
「よ、陽介……」
狐塚の名を出された瞬間から、呼吸が乱れていた。

黒院はゆっくりと立ち上がった。

「白波君、灰堂君。
 そのくらいにしといてあげなさい。
 アンナ君は真面目だからね。
 青春を犠牲にして頑張ってきたんだ。

 狐塚君の様な 能無し に惹かれたことも
 その歳で経験が無いことも


 茶化しては可哀想だ。」


黒院は静かに笑った。

「……さて。
 私が半端にしか組み上げられなかった玩具だ。

 ならば

 せめて私がきっちり壊してあげるのが優しさと思わないか?」


赤い光が黒院の身体から滲み出し、
彼が両腕を広げると、計十本の巨大な赤い爪を纏っていた。


血染契縛魔王(サングリオス)の牙──!

《司馬鬼隊(しばきたい)制圧》時だけではない、
《天蓋区 頭逸教会(とういつきょうかい)暴走事案》や
《第七封鎖区・頭狂徒(とうきょうと)殲滅作戦》…

その破壊力を何度も見てきた彼女は、
すぐさま回避と同時に防御をするため、反射的に左手で鞘を掴み、右手でサーベルを抜こうとした。


右腕が、何も握らないまま、空を切った。

「……え……?」

そして床に転がる指輪の光が視界に入り、ようやく理解が追いついた。
抜くはずのサーベルは鞘に残ったまま。
右手首から先が──“無い”。


血はほとんど出ていない。
切断面は焼けたように滑らかで、痛みすら遅れてやってきた。


アンナが一足飛びで後ろへ下がる。
その瞬間には──
“眼前”に、すでに黒院が立っていた。


彼はアンナの腰に、まるで社交界のダンスの誘いでもするかのように両手をそっと添えていた。

その距離は、抱擁よりも不気味だった。


刹那──
黒院の腕の周りに浮遊する十本の赤い牙が、アンナの腰を囲むように弧を描く。
まるで巨大なハサミが形を成すように。


バツン。


枝を切るような、妙に軽い音が室内に響いた。
「あ゛ぅ」
アンナの悲鳴が短く響き、身体がふっと沈む。
視界が傾き、床が近づき、ボトリと音を立てて落ちた。


天井を見上げている──


上体を起こした彼女の視界に、自分の“下半身”が床にへたり込む様子が映った。

悪寒と震えが、遅れて激痛が走る。


その奥で、冷たく見下ろしていた黒院が牙の一つを彼女の胸に深く突き立てた。

サングリオスの能力なのだろうか、不思議と痛みが和らぎ、意識がはっきりする。
黒院から
──まだ息を引き取るなよ?
そう言われてる様だった。


「安心しなさい、アンナ君。
 あの能無しの巡査も──
 すぐに君のところへ行かせてあげるよ。
 寂しくないようにね。」


灰堂
「よぉし、隆宗。
 我々の邪魔になる存在を炙り出した点を評価し、業績功労賞を与えよう。」


白波
「灰堂、お前 今日は妙に饒舌ですね。
 この後 一杯呑りますか?
 狐塚君解体フィルムのチャプター案でも考えようじゃないですか。」


灰堂
「名案だ。
 隆宗を助けたいなら自分の身体を傷つけろ、そう命令するのはどうだ!?
 その後で、隆宗だったモノを見せるんだ。
 あの馬鹿でも流石に思い知るだろう。」


アンナの瞳に涙が滲む。
自身の痛みや死への恐怖ではない──
狐塚を死地に追いやるかもしれない後悔、師への失望と絶望、不正を正せない無念によるものだった。


その光景を黒院は黙って見ていた。
もう良いだろう、と突き立てられていた牙が抜かれる。


直後、アンナの心臓は暴れる様に鼓動し、冷たい脂汗が顔面をびしょ濡れにするほど一気に吹き出した。
視界が狭くなり、呼吸が荒くなる。


彼女は激痛で消えそうになる意識を辛うじてつなぎとめ、一度歯を食いしばり、生命の全てを使って声を絞り出した。

「……ぁ……あ、
 あなた達……それでも……に……人間……?」


その問いは、誰にも届かない。


意識が闇に沈む直前──
かすかに、誰にも聞こえない心の声が漏れた。


(……陽介……逃げ…て…死なないで…お願い)


アンナの瞳から光が静かに失われた。

黒院は落ちた上半身を靴で軽く押しやりながら、心の中で呟いた。

「忠誠心は利用するためにある。
 善良さは踏みつけるためにある。

 そして──
 
 私の邪魔になる者は、
 どれほど私を慕っていようとも……不要だ。」


赤い光がゆっくりと消えていく。


「さて。
 次は──あの生意気な近衛騎士だ。
 アンナ君同様、理解し難い正義感が無ければ、まだ利用価値はあったのだがね。」


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総監戦以降 雛形文

総監室は白波と灰堂の下卑た笑い声で満ちていた。

彼らは、断ち割られたアンナの遺体を前に、

「どちらの賭けが当たっているか」を競っていた。

人間の尊厳を賭け事にする、救いようのないやりとり。

倒れた写真立てのガラスが、朝の光を鈍く反射している。

総監は机の前に立ち、その写真を裏返したまま見つめていた。

その瞬間──

外の空気が震えた。

高層タワーの外壁を走る風が、

一瞬だけ異様な唸りを上げる。

次の瞬間、全面強化ガラスの窓が閃光のように砕け散った。

ガシャァンッ!!

破片が光を反射しながら宙を舞う。

その中を、竹娘が飛び込んできた。

天竹織羽の残光が、朝日を受けて白く煌めく。

その光の中に、

命を使い果たしたアンナの姿が映った。

竹娘

「ア゛ンナさんっ!!!」

予想はしていた。

あの“バツン”という切断音。

短い悲鳴。

通信が途切れる直前の、あの問いかけ。

覚悟もしていたはずだった。

だが──

涙と脂汗にまみれた苦悶の表情を目にした瞬間、

悔しさでも、無念でも、怒りでもなく。

ただ、

どうしようもない喪失の痛みが込み上げた。

黒院

「おや、近衛騎士殿。

 ちょうど良い。探す手間が省けたよ。」

竹娘

「次は私……ですか。」

黒院は愉悦を隠そうともせず、

ゆっくりと椅子から立ち上がった。

黒院

「そうだ。

 君は我々の“障害”以外の何物でもないからね。

 それに──君は国民に大層人気だそうじゃないか。

 ならば、彼らの心を折る“道具”にもなり得る。」

灰堂が肩を揺らして笑う。

灰堂

「お前、ベスティアリウムで多くの魔物を屠ったらしいじゃないか。

 あれ以来だよ──お前が惨たらしく殺されるところを見たいというリクエストが世界中から届くんだ。

 あそこの顧客はろくでなしばかりだが、身分や金払いだけは良いもんでね。」

黒院

「と、いう訳だ。

 君はアンナ君ほど“綺麗なまま”逝かせないぞ。」

赤い光が黒院の身体から滲み出し、

サングリオスの牙が再び顕現する。

黒院

「さて──どこから抉り取ろうか?

 頭? 肩? 右腕? 脚の付け根? 首? 胴?

 ……それとも“もっと大事なところ”か?

 特別に選ばせてあげても良い。」

白波が眼鏡を外し、静かに言った。

「まあ総監。

 愛弟子を”割った”直後でお疲れでしょう。

 それに──私もたまには腕を振るっておかねば鈍ってしまいます。」

その瞬間、白波のスーツの背中が裂けた。

百足のような神経束がうねりながら伸び、

皮膚の下で脈打つ光が、まるで脳波のように明滅する。

白波

「神経百足魔王──ネウロニアス。

 痛みを知らぬ者に、正義など語る資格はありません。くふふふふ。」

竹娘

「盛り上がっているところ申し訳ございませんが……」

静かに口を開く。

その声は、怒りでも悲しみでもなく、

氷のように冷たい皮肉を帯びていた。

竹娘

「私は正義を語るつもりなどございません。

 アンナさんのように、胸を張って“正しい”と言えるほど立派でもございません。」

黒院の眉がわずかに動く。

竹娘

「ただ──あなた方がどれほど執拗に踏みつけても折れなかった“あの方の強い心”だけは、

 まだこの世界に残っています。」

白波の神経束がピクリと震える。

竹娘

「私はその心を継いだわけではありません。

 そんな資格もございません。

 ただ……」

一歩、前へ。

竹娘

「あなた方が壊し損ねた“最後の欠片”くらいなら、王室の駒に過ぎない私でも拾えるのではないかと。」

灰堂が舌打ちする。

竹娘

「そして──

その欠片ひとつにすら、あなた方は勝てない。」

黒院の笑みが完全に消えた。

黒院

「近衛騎士殿。

 君は本当に、言葉で人を刺すのが上手だね。」

灰堂

「その駒ごときが……何を抜かす。」

白波

「ふむ……その言い方は、少々癇に障りますね。」

白波の背中から伸びた百足状の神経束が、

まるで生き物のようにうねりながら竹娘へ向けて形を整える。

白波

「では──総監。

 最初の一手は、私が。」

その声は黒院の愉悦でも、灰堂の嘲笑でもない。

ただ淡々とした“処理”の声だった。

白波

「神経百足魔王──”ネウロニアスの力”

 痛覚から壊して差し上げましょう。」

白波の背中から伸びた神経束が、

音もなく竹娘の足元へ滑るように走る。

竹娘が跳び退いた瞬間──

床に触れた神経束が、石床を内部から腐らせるように崩壊させた。

まるで床そのものが「痛み」を感じて壊れたかのように。

白波

「……逃げ足は速い。

 だが、痛みは逃げられませんよ。」

神経束が一斉に広がり、

百足というより“神経回路の展開”のように竹娘を包囲する。

白波

「触れた瞬間、君の神経は私のものです。

 痛覚、運動、視覚、聴覚──

 どれから奪われたい?」

竹娘が構えた瞬間、

白波の神経束が空気を震わせるほどの速度で迫る。

白波

「では……まずは“触覚”から。」

一本の神経束が竹娘の左腕へ迫る。

竹娘は全てを避けず、あえて右手小指に触れさせた。

その瞬間──

右手の感覚が消えた。

痛みでも痺れでもない。

ただ、そこに“存在しない”ような感覚。

白波

「どうです?

 痛みを奪われるのは、痛みを与えられるより恐ろしいでしょう。」

竹娘は白波を睨みつけ、

感覚の消えた右手から“彼の力の構造”を読み取っていた。

白波

「正義を語らぬ駒だと言いましたね。

 ならば──その駒がどこまで動けるかっ!

 試させていただきま──」

どぐちゃ…っ

背中の奥で、鈍い音が響いた。

言い終わる前に、白波は膝から崩れ落ちた。

竹娘は白波の背後に立っていた。

ネウロニアスの神経束を、背骨ごと握り潰して。

失われたはずの触覚は、すでに竹娘の右手に戻っている。

白波

「ひっ……ひっ、ひいやぁああぁあ゛……

 な、なんで……。」

竹娘は静かに答えた。

竹娘

「ネウロニアスの力──そう仰っていましたから、

 “それしか使えない”のかも、と思いまして。」

白波の瞳が恐怖で揺れる。

竹娘

「なら、その力の“仕組み”を分析すればいいだけです。

 あなたの神通力は……とても分かりやすい。」

白波

「な……何を……

 何をしたんだぁああ……!?」

竹娘

「あなたの神経支配は“後付けの力”。

 体系としては浅い。

 だから──壊すのは簡単です。」

白波の身体が痙攣し、神経束が床に落ちていく。

竹娘

「次は、総監様ですか?」

黒院の笑みが消え、

灰堂が後退しながら竹娘を睨む。

空気が一気に張り詰めた。

竹娘は血の気の引いた灰堂を一瞥し、静かに言った。

竹娘

「灰堂さん──あなたには戦うつもり、そもそもございませんよね。

 ただ、私が無惨に殺されるところを観察する気だった。」

灰堂

「……っ、……」

竹娘は一歩だけ前に出る。

その動きだけで、灰堂の肩が跳ねた。

竹娘

「見たところ、あなたには“武の系統”がまったくありません。

 あなたの首を刎ねるシミュレーション──

 もう何度も終わっています。」

灰堂の喉が鳴る。

竹娘

「でも、私はあなたを斬りませんよ。

 私は王室のお飾りの近衛騎士。

 “儀典官寄りの駒”ですからね。」

灰堂の顔が歪む。

竹娘

「そんな駒にすら、あなたは“戦う価値が無い”。だから──斬りません。」

灰堂

「……ぐっ……!」

竹娘

「逃げるなら、どうぞ。

 その代わり──後で必ず捕まえます。」

灰堂は息を呑み、

芋虫の様に這いつくばる白波を踏みそうになりながら後退した。

そのとき──

黒院がゆっくりと歩み出た。

まるで散歩でもするかのような、

静かで余裕のある足取り。

黒院

「……良い気になって困るな、月京。」

竹娘は黒院へ視線を向ける。

黒院の周囲の空気が、

熱でも冷気でもない“圧”で歪む。

黒院

「白波を壊し、灰堂を怯えさせ……

 なるほど、君は王室にとってさぞ使いやすい“駒”らしい。」

竹娘は構えを取らず、ただ黒院を見据えた。

黒院

「だが──その自信。

 その余裕。

 その分析力。

 すべて、私の前では無意味だ。」

赤い光が黒院の身体から滲み出す。

サングリオスの牙が、ゆっくりと形を成し始める。

黒院

「さあ、近衛騎士殿。

 君がどれほど“理解”していようと──

 私の力は、君の想像を超える。」

「今のセリフなら、一字一句そのままとは言いませんが──

 予想できましたけどね。」

竹娘は静かに太刀を構えた。

黒院の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。

黒院

「──減らず口を。」

空気が裂けた。

黒院は歩み出ながら、

まるで儀式の手順を確認するかのように、

静かに“勝利の算段”を並べていた。

左手で太刀を抜かれる前に、

アンナの時と同じく左腕を牙で刈り取る。

十本の牙で全方位攻撃を仕掛け、

避けられるようなら牙を囮にして

竹娘の頸椎を捻り潰す。

十本の牙を束ね、攻防一体の鎧と化し、

そのまま突進して押し潰す。

どれも、黒院を勝者たらしめた策。

一度も破られたことのない、

“絶対の勝ち筋”。

黒院

「まずは──小手調べだ。」

赤い光が黒院の身体から滲み出し、

サングリオスの牙が十本、

音もなく顕現する。

その瞬間──

竹娘はすでに抜刀を終えていた。

彼女の左腕を抉り取るはずだった牙は、

粉々に砕け、光の粒となって宙を舞う。

一本だけではない。

十本すべてが、同時に砕け散っていた。

黒院

「ば……馬鹿な……!」

黒院の思考が一瞬だけ止まった。

その“間”を、竹娘は見逃さない。

竹娘は寝待太刀を構え、

地を蹴った。

疾い。

黒院の視界が追いつかない。

突進の勢いのまま、

竹娘は黒院の四肢の付け根へ連続突きを叩き込んだ。

肩、股関節、肘、膝──

関節の急所だけを正確に貫く、

寸分の狂いもない連撃。

黒院

「お……ぐっ──!」

黒院の身体が崩れかける。

その顎の下へ、

竹娘の右足が鋭く跳ね上がった。

ハイキック。

黒院の頭部が後方へ跳ね上がり、

巨体が空中へ吹き飛ぶ。

竹娘はすでにその先へ回り込んでいた。

黒院が浮遊する位置を読み切り、

空中から踵を振り下ろす。

踵落とし。

黒院の後頭部へ直撃し、

巨体が前面から地面へ叩きつけられた。

床が砕け、

黒院の身体が沈む。

竹娘はうつ伏せで倒れた黒院の背後へ立ち、

まず両足のアキレス腱を正確に断ち切った。

その動きは一瞬で、

黒院が反応するより早い。

続けざまに、

右肩へ太刀を突き立てた。

刃が骨を貫き、

赤い牙の防御が砕け散る。

黒院の策はすべて無効化され、

彼は地面に押し倒される形で倒れ込んだ。

竹娘

「黒院総監。

 あなたを殺すつもりはございません。」

黒院の瞳が揺れる。

竹娘

「あなたも、白波さんも、灰堂さんも──

 生かして確保します。」

白波は半身不随のまま芋虫のように震え、

灰堂は壁際で息を呑んでいる。

竹娘は黒院を見下ろし、

太刀を肩にさらに押し込みながら続けた。

竹娘

「これから──

 アンナさんが暴いた”あなた方の悪事”を、すべて公衆の面前で吐いていただきますので。

 申し訳ございませんが、動けなくなっていただきました。」

黒院の胸の奥で、何かが“音もなく折れた”。

(……終わった。)

支配者としての誇りも、

自分は選ばれた側だという幻想も、

誰にも暴かれないはずだった悪事も──

次の瞬間、

白波の胸元の数珠が赤く脈動し始める。

竹娘は太刀を構えたまま、

黒院の声の奥に潜む“異質な気配”を感じ取った。

白波

「……!? これは……!」

黒院は地に伏せたまま、

血の滲む笑みを浮かべた。

(そうだ。

 お前のために仕込んでおいた“悪魔君主級十二体のカケラ”。

 私の意思ひとつで発動する。

 お前は知る由も無い…。

 このままでは済まさん!!!)

次の瞬間──

数珠が爆ぜた。

十二の悪魔のカケラが白波の体内へ流れ込み、

神経束が暴走し、肉体が膨張する。

白波

「あふっ!?ひ、ひぃあああああああああああ!!」

皮膚が裂け、骨が伸び、

肉が螺旋状に捻じれながら融合していく。

竹娘

(まさか……!)

だが暴走は止まらない。

白波の神経束が、

黒院・灰堂・竹娘・アンナの遺体へ同時に伸びた。

その束の中心、白波の胸部で脈打つ黒い核が、他のすべての生命を吸い上げていた。

まるで“融合体の心臓”そのものが、白波の神経に置き換わっていくように。

黒院

「!? ま、待て……やめろ!!!」

赤い牙が展開されるが、

瞬時に溶けて吸収される。

動けない黒院は、そのまま

白波の肉塊に引きずり込まれた。

灰堂

「おうっ……あぃぃぃぃ!!」

灰堂は情けない悲鳴をあげつつ奇跡的に神経束の隙間をすり抜け、

総監室の扉へ転がるように逃げ出した。

竹娘

「アンナさん!!」

竹娘は跳躍し、

アンナの上半身だけを抱えて回避した。

床を薙いだ神経束が、

アンナの下半身を吸い込んでいく。

着地した竹娘は、

アンナの上半身を胸に抱いたまま、

巨大化する融合体を見上げた。

—🌙 魔獣 D-コンプレックス誕生

腕は六本。

一本一本が人間の胴ほどの太さを持ち、

爪先は刃のように鋭く、

振るたびに空気が金属音を響かせる。

肉は螺旋を描き、

骨は塔のように伸び、

胴体は蛇のようにねじれ、

節ごとに隆起した筋肉が鎧のように硬化する。

背骨の延長からは棘が生え、

黒い血を滴らせながら脈動していた。

巨大な頭部の額には黒院の歪んだ笑みが、

胸の中心には白波の絶叫が刻まれていた。

二つの顔は一つの肉塊の中で永遠に喰らい合い、その苦悶が巨獣の身体を脈打たせていた。

白波を討てば、この巨獣もまた止まる──

そんな確信が竹娘の胸をよぎった。

その巨体は体高二十メートル以上、

最上階の総監室の天井を突き破り、

LPSDタワーの外へ伸び上がる――。

雷光が白銀の皮膚を照らし、

まるで神の怒りが具現化したかのように輝いた。

その姿は、魔物でも魔人でもない。

十二の悪魔君主と二体の魔王の力を宿した、

異形の巨獣──

魔獣 D-コンプレックス。

その怪物の口腔が開いたかと思えば

螺旋状の歯列が回転し、地獄の底から響くような咆哮が放たれる。

その音は“圧”だった。

残骸が吹き飛び、

床の破片が宙を舞い、

外壁が震える。

竹娘の髪が風に舞い、

アンナの髪が腕の中で揺れる。

竹娘

(白波さんと黒院さんを一刀両断していれば……

 こんなことには。

 私のせいだ。)

「……来い!」

六本の腕が一斉に振り下ろされる。

地面が砕け、床が波のように盛り上がる。

だが竹娘は、アンナの上半身を右腕で抱えたまま、すでに懐にいた。

空間を切り裂くような直線で滑り込み、

寝待太刀が閃く。

刃が脚部の鱗を斜めに切り裂き、

黒い血が噴き出す。

怪物

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!」

白波

「やめ……やめてぇぇぇぇ!!」

六本の腕が暴れ、床を粉砕する。

竹娘はすべてを見切り、

第二関節へ二撃目を叩き込む。

巨体が片膝をつく。

竹娘

(アンナさん、ごめんなさい。

もう少し耐えててくださいね。)

竹娘は太刀を納め、片腕を天へと伸ばした。

その指先に、濃い蒼の球が生まれる。

空気が震え、周囲の光がわずかに歪む。

まるで世界が一瞬、息を止めたかのようだった。

「――煌輝雷天極閃(コルキロセン)」

青白い稲妻が球の周囲を走り、

今にも発射されようとした──その瞬間。

轟音。

外から巨大な影が迫る。

LPSDの武装ヘリがタワーの裂け目へ滑り込み、誘導弾ポッドが怪物へ向けて展開された。

操縦士

「総監室の怪物を確認!

 援護します!!」

竹娘

「やめ──!」

だが遅かった。

二発の誘導弾が発射され、

Dコンプレックスの頭部と胸部へ直撃した。

爆炎が塔内を照らし、衝撃波が竹娘の髪を揺らす。

一瞬、怪物の咆哮が途切れた。

黒院の顔が爆炎の中で崩れ、

骨と肉が溶け合うように消えていく。

その姿は、もはや人の形を留めていなかった。

だが──

胸部の肉塊が蠢き、爆炎を吸い込むように再生を始める。

白波の残骸がその中心で脈動し、

皮膚も骨格も溶け落ち、

元の人相が分からぬほど歪んでしまったが、まだ自我を保っている。

白波

「いやぁ、ひああ、」

怪物の巨体が怒りに震え、

六本の腕が暴れ、

タワーの外壁が崩れ、瓦礫が街へ落ち始める。

竹娘

「街が……!」

街区への被害が拡大する前に、コルキロセンを収束させ放つ──

そうしようとした矢先、別のヘリから通信が割り込んだ。

???

「月京さんお疲れ様ですー。

 何すかぁ、あのバケモノ?

 とりあえず胸の中心にいる野郎を撃てって聞いてるんすけど。

 ま、あと30秒あれば狙撃地点に着くんでー、俺がケリつけるから耐えててくださいね!

 警部補の足を引っ張らないように!」

竹娘

(狐塚巡査……まだ 知らないんだ。)

竹娘は蒼光を収束させたまま、

怪物の胸部──白波の歪んだ顔が脈打つ位置を見つめた。

竹娘

(……胸の中心。

 白波を討てば、おそらく止まる──

 そして、あの位置なら……

 狐塚巡査の狙撃の方が街を巻き込まないで済む。)

蒼光がゆっくりと消えていく。

竹娘はコルキロセン発射準備を解除した。

竹娘

「……狐塚巡査。

 お待ちしておりました。

 状況は芳しくないですが、まだ立っています。

 あなた方が来てくださるまで──倒れませんよ。」

一瞬だけ呼吸を整え、竹娘は静かに続けた。

竹娘

「……3年半前のリレシャンブル冬季オリンピックの感動、また味あわせてくださいね。」

通信の向こうで爆音が響く。

狐塚はアンナのインプラント映像を見ていない──

事務所に端末を忘れていたからだ。

竹娘はタワーの裂け目から跳躍し、

アンナの遺体を抱えたまま離脱した。

狐塚巡査に見せたくなかったから。

地上では、避難誘導に当たっていたLPSD職員たちが、血相を変えて駆け寄ってくる。

職員

「隆宗警部補……! そんな……!」

その声は震え、涙が滲んでいた。

どうやらアンナを慕っていた者たちのようだ。

竹娘は静かに膝をつき、

アンナの上半身をそっと抱き直した。

乱れた髪を整え、衣服の皺を指でならし、

まるで“最後の礼儀”を尽くすように。

竹娘

「……隆宗警部補は、、、

 彼女は、

 最期まで、警察官としての責務を貫かれました。」

職員たちは白布を広げながら、

深く、深く頭を下げた。

職員

「 連れて帰ってくださって……ありがとうございます……。」

涙をこらえきれず、声が震えていた。

竹娘は布が乱れないようにそっと手を添え、

最後まで目を離さなかった。

アンナの遺体は、

職員たちの震える手によって静かに運ばれていった。

竹娘は一度だけ目を閉じ、

深く息を吸った。

—🌙 狐塚の狙撃

Dコンプレックスが咆哮を上げ、

竹娘を追うようにタワーを踏み砕きながら地上へ向かおうとした瞬間──

遥か上空、旋回する武装ヘリの後部ハッチが開いた。

乱気流で機体が揺れ、

床は常に傾き、

狙撃には最悪の環境。

だが、その揺れる空間の中央で、

狐塚はまるで“地面に立っているかのような安定姿勢”で銃を構えていた。

ヘリの振動に合わせて呼吸を同期させ、

揺れの周期を読み切り、

機体の傾きが“ゼロになる瞬間”を待つ。

狐塚の手にある狙撃銃は、

高初速・一点貫通に特化した対物狙撃銃。

弾丸は“空気を裂く”ほどの速度で飛び、

命中点の周囲を一切巻き込まず、核だけを正確に破壊するための銃だった。

街を守るには、

竹娘のコルキロセンよりも“安全”である理由が、

その銃の構造に宿っていた。

—🌙 狙撃

狐塚は揺れる機体の中で、

胸部の中心──白波の歪んだ顔が脈打つ位置へ照準を合わせた。

風、距離、揺れ、怪物の動き。

すべてを一瞬で計算し、

引き金へ指を添える。

機体が揺れた。

だが狐塚は揺れに合わせて身体をわずかに傾け、

照準を“揺れの逆方向”へ滑らせる。

その動きは、

まるで揺れを利用して狙いを安定させているかのようだった。

乾いた銃声。

 続けて、もう一発。

弾丸は空気を裂き、

白波の眉間へ、

そして胸部の中心へ吸い込まれるように突き刺さった。

一点貫通の弾丸は、

周囲の肉体を巻き込まず、

核だけを正確に破壊する。

白波の顔が弾け飛び、

胸部の核が砕け散る。

巨体に蜘蛛の巣状のヒビが走り、

肉が崩れ、骨が溶け、

怪物は支えを失い──

タワーから地上へ落下した。

轟音が街を揺らす。

狐塚

「いょっしゃああ、俺っち業績功労賞 貰えちゃう?

怪物は動かない。

完全に停止したように見えた。

だが──

黒い泥のように変化した肉が再び蠢き始める。

怪物が再び立ち上がろうとした瞬間──

竹娘は天へ右腕を掲げた。

空が裂け、

雷光が収束する。

竹娘

「これで──終わりです。」

天から落ちた雷撃が、光の柱と化した刃となり

Dコンプレックスを貫いた。

巨体が白く焼け、

内部の悪魔の光が一斉に消える。

怪物は、完全に沈黙した。

◆ LPSDタワー前──白銀歴1205年3月DD日 03:12

灰堂は、総監室の惨劇から逃げるように

LPSDタワーの非常階段を駆け下りていた。

総監・副総監は、竹娘との戦闘で既に倒れた。

Dコンプレックスへと融合した二人の魔人形態すら、竹娘と狐塚の連携により沈黙した。

生き残ったのは──灰堂ただ一人。

灰堂

「……くそ、黒院も白波も……やりすぎだ。

証拠が残るだろうが。

それに……あの近衛騎士。

あれこそバケモノではないか。」

(まあいい。記録は私が握っている。

王室をどう潰すかは、ひとまず後だ。)

息を切らしながら出口へ向かう。

しかし──

自動扉が開いた瞬間、

おびただしい数の赤いレーザーサイトが灰堂の胸元に灯った。

特殊急襲隊、交番の巡査、機動隊員……

階級や部隊の枠を越えた混成部隊が彼を取り囲む。

LPSD特殊急襲隊レンジャー隊員

「灰堂公安部長。

あなたを、殺人・証拠改ざん・職権乱用の容疑で拘束します。」

灰堂

「……あ!? 待て、私は──」

言い終える前に、

地面に押し倒され、拘束具が嵌められた。

周囲の隊員は誰も表情を動かさない。

ただ淡々と、腐敗を切り取る刃のように職務を遂行していた。

その様子は、

革命の夜と同じく“音もなく”進んでいった。

そして──

総監室で記録されたアンナのインプラント映像。

彼女の義眼と人工鼓膜が捉えた映像・音声データは、

後日、何者かの手によって世間に流出した。

誰が流したのかは分からない。

ただ、その凄惨さに、見た者の多くが言葉を失い、

その場で気絶する者までいたという。

さらに、事件当日の混乱の中で、

複数の民衆が撮影した“正体不明の巨大な影”や“異常な破壊”の映像・画像も同時に流出した。

それらは怪物の全容こそ映せていないものの、

タワー外壁が内側から破砕される瞬間や、

巨大な腕のような影が職員を吹き飛ばす様子が記録されていた。

「人間の仕業ではない」

「何か得体の知れないものがいた」

そんな噂が瞬く間に広がり、

アンナの映像とあわせて、

国中が“説明不能の恐怖”と“真実への渇望”に包まれていった。

いずれにせよ──

「正義を貫いた者が、正義を騙る者に殺された」

あまりに残酷なその事実だけが、世界に残った。

🌙 裁判開廷前──竹娘とハル

裁判所の廊下。

傍聴席へ向かう竹娘は、

壁にもたれ、ふらつく女性の姿を見つけて足を止めた。

アンナの母──隆宗ハル。

数ヶ月の交流で、竹娘は彼女の強さも優しさも知っていた。

そのハルが、今は壊れそうなほど弱っている。

黒院・白波と共に娘を殺したも同然の灰堂が、

金と権力で裁きを逃れようとしている現実。

その重さに押しつぶされそうになっているー

竹娘は、その表情を見てすぐに理解した。

(……いっそ知り合いでなかったら。

こんなに胸が痛むこともなかったのかな。)

そんな身勝手な思いが胸を刺し、

自責の念が喉を締めつける。

竹娘はハルの前に立ち、

静かに、しかし揺るぎない声で言葉をかけた。

「行きましょう、隆宗さん。

私が隣にいます。」

本当は

「必ず通します。正しい裁きを、ここに。」

そう約束したかった。

自分の力が及ばない悔しさに震えた。

ハルは涙をこらえながらうなずいた。

竹娘はその反応を見届けると、

まるで自分の中の最後の迷いを捨てるように、

法廷へ向かって歩き出した。

🌙 ◆ 裁判開廷──白銀歴1205年5月DD日 09:00

蔓月司法院の巨大な法廷は、

朝から民衆で埋め尽くされていた。

アンナのインプラント映像が流出したことで、

国中が怒りと悲しみに震えていた。

被告人が通る導線に面した傍聴席──

その最前列に竹娘とハルが座っていた。

ハルは震える手で竹娘の袖を握りしめ、

竹娘は静かに前を見つめていた。

裁判官が入廷し、灰堂が連行される。

民衆

「殺人犯を裁け!」

「隆宗警部補を返せ!」

「正義を踏みにじった奴だ!」

被告人の確認、起訴状の朗読、黙秘権の告知。

検察側は、三つの証拠を提出した。

一つ目──アンナ・隆宗警部補のインプラント映像。

灰堂・黒院・白波による暴行、脅迫、違法拘束の一部始終が記録された“直接証拠”。

二つ目──アンナが生前に集めていた内部調査資料。

灰堂の収賄記録、黒院の違法指示、白波の証拠改竄。

複数の職員証言と照合され、

“組織的な犯罪行為”を示す状況証拠として提出された。

三つ目──LPSDタワー崩落時の監視映像。

巨大な影が外壁を破壊し、

複数の職員が負傷した“異常事態”の映像。

Dコンプレックスの存在は伏せられ、

「灰堂らの違法行為が引き起こした大規模事故」として扱われた。

どれも灰堂に重罪を課すには十分なはずだった。

続いて弁護側の証拠提出・調査。

求刑と最終弁論。

検察の証拠提出以外のどれもが、不自然なほど淡々と進む。

裁判長は提出された証拠に一度も目を落とさず、

まるで判決文を“最初から決めていた”かのように淡々と読み上げた。

そして──判決宣告。

裁判長

「被告・灰堂公安部長──

 件の映像記録をはじめ、検察側の証拠は不十分・虚偽性が認められると判断し、

 無罪。」

法廷が揺れた。

悲鳴にも似た怒号が響く。

民衆

「嘘…だろ……?」

「司法まで腐ってるのか!」

「あの映像をどう説明するんだ!」

「正義はどこにあるんだ!」

灰堂は薄く笑い、

法廷の去り際、竹娘の横を通る時に小さく囁いた。

「じゃあな。

法の外側に立つ者が誰か──よく覚えておけ。」

竹娘の瞳がわずかに揺れたが、

すぐに灰堂へ鋭い視線を向けた。

動揺を悟られたくなかった。

隣のハルは、その場に崩れ落ち、声にならぬ嗚咽を漏らしていた。

🌙 裁判後──竹娘とハルの別れ

法廷を出た瞬間、

ハルは竹娘の腕を掴んだまま、しばらく動けなかった。

その手は震えていて、竹娘はそっと受け止めるように立ち止まった。

竹娘

「……隆宗さん。今日は、一緒に帰りましょう。

 少し休んで──」

ハルは首を横に振った。

涙で濡れた瞳が、竹娘の胸を刺すように揺れていた。

ハル

「……ありがとう。

 あなたがいてくれて、本当に……救われたの。」

竹娘

「そんな、私は──」

言葉を遮るように、ハルは竹娘の手を握り返した。

かすかに浮かんだ笑みは、壊れかけた心が最後に見せる強がりのようだった。

ハル

「あなたは、最後まで娘の味方でいてくれた。

 ……連れて帰ってきてくれたって、聞いたわ。

 それだけで……十分すぎるの。

 兎娘さんにもよろしくね。」

竹娘は静かに頷き、ハルの手を包み込むように握り返した。

竹娘は言葉を失った。

ハルは竹娘の手をそっと離し、

まるで何かを決意した人のように、

静かに背を向けて歩き出した。

竹娘

(隆宗さん……?)

呼び止めようとした声は、喉の奥で消えた。

ハルは振り返らない。

その背中は、

“母としての最後の道”を選んだ者のそれだった。

竹娘はただ、

その小さな背中が人混みに消えていくのを見つめるしかなかった。

🌙 灰堂襲撃〜発砲まで

裁判所前の広場。

退廷した灰堂が姿を現すと、

報道陣と傍聴人がざわめき、

その中心を、彼は自信に満ちた足取りで進んでいく。

停車している黒い公用車へ向かいながら、

灰堂は“勝者の顔”をしていた。

司法も王室も民衆も、自分には触れられない──

そう確信している者の歩き方だった。

ゆっくりと階段を降り、

周囲の視線を意に介さず、

むしろ“見せつけるように”胸を張って歩く。

そのとき──

群衆のざわめきの中で、ただ一人だけ静かな影が前へ出た。

女性。

隆宗ハル。

動きはあまりにも自然で、

誰も気づかなかった。

灰堂は最初、ただの傍観者だと思い、

視線を流すだけで通り過ぎようとした。

しかし──

すぐに思い出す。

(……あの近衛騎士の隣に座っていた女だ。)

女性の手がゆっくりと上がる。

その先にある“黒い拳銃”が自分へ向けられていることに気づいた瞬間、

灰堂の表情がわずかに揺らぐ。

余裕綽々だった顔が、

「なぜ自分に?」という戸惑いへ変わり、

さらにその戸惑いが、

「これは本当に自分に向けられているのか」という恐れへと変わっていく。

灰堂は足を止めた。

周囲のざわめきが急に遠くなるような感覚に襲われる。

女性の視線は揺らがず、

その手は確かに自分を狙っている。

灰堂の喉が、かすかに鳴った。

(……やめろ。やめろ。やめろ。)

心の声が、“人間の弱さ”を帯びる。

顔に浮かんだ余裕が完全に消えた。

その瞬間、灰堂は

“裁判に勝った男”から

“突然、命の危機に直面したただの人間”へと変わっていく。

ハルの指がわずかに動いた。

空気が張りつめたように静まり返り──

乾いた破裂音が広場に響いた瞬間──

灰堂の胸元へ向かっていた銃弾の軌道は、

“何か”に吸い込まれるように消えた。

次の瞬間、

灰堂とハルの間に、公安部巡査・狐塚陽介が割って入っていた。

彼の右手は、銃弾を受け止めた衝撃で赤く腫れ、

指先から血が滲んでいる。

民衆

「え……?」

「狐塚……?あのドジで有名な巡査が……?」

「嘘だろ、素手で……弾を……?」

狐塚は震える手で灰堂を庇いながら、

ハルへ向き直る。

「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

ハルは、銃弾が阻まれたと理解した瞬間、

絶叫とともに再び銃を灰堂へ向けた。

ハル

「返してよ!!娘を゛っ、返しな゛さいよぉお!!」

狐塚はその拳銃を掴み、必死に押し下げた。

狐塚

「やめてくださいっ……!

 お義母さん……!」

ハル

「二度とお義母さんなんて呼ばないで!!」

その叫びは、狐塚を拒絶しているのではなく、

ただ、やるせなさと悲しみが溢れた声だった。

ハルはその場に泣き崩れ、

別の巡査に優しく取り押さえられる。

その瞬間──

民衆の怒りが爆発した。

民衆

「ハルさんを逮捕するな!!」

「娘を殺された母親だぞ!!」

「罪人は灰堂だ!!」

「母親を拘束するな!!」

「警察は誰を守ってるんだ!!」

怒号が波のように押し寄せ、

広場全体が揺れた。

狐塚は拳銃を離し、

その場に膝をついた。

右手は震え、痛みで指が動かない。

民衆の視線が狐塚へ向く。

民衆

「出世を取るのか!?」

「恋人を殺した奴を庇うのかよ!!」

「正義を裏切ったクズめ!!」

狐塚は目を強く閉じ、何も言い返せず。

その頬を涙が伝う。

灰堂は、そんな狐塚を見下ろし、薄く笑った。

灰堂

「狐塚君──よくやった。

 隆宗君の分まで励みたまえ。」

そして灰堂は、

泣き崩れているハルの前でわざとしゃがみ込み、

耳元で囁いた。

灰堂

「……娘さん、最後まで正直で、まっすぐでしたよ。

 あなたの育て方が良かったんでしょうな。

 ──そのせいで命を落としましたが。」

ハルの肩が震えた。

灰堂

「涙と脂汗で顔をぐちゃぐちゃにしながら、

 過呼吸で声も出せないほど苦しんでね。

 ……あの最期の表情、見せてあげたかったですよ。」

その言葉が、

ハルの中で──

アンナ視点のインプラント映像を補完するかの様に重なった。

愛娘の視界が滲み、

焦点が合わなくなり、

映像が途切れる直前の、あの呼吸。

あの震え。

あの、か細く絞り出された最後の言葉。

ハル

「ふっ……う……ぐ……うぅう……っ……」

娘は最後まで警察官だった。

最後まで、正義を貫き通した、我が家の誇り。

その一心で、ハル自身もこれまで耐えてきた。

耐え続けてきた悔しさ。

言葉にできなかった悲しみ。

どうにもならない現実への絶望。

それらが胸の奥で絡まり合い、

ほどけることなく──

支え続けていた何かが、音もなく折れた。

ハルの心は、静かに壊れた。

周囲の巡査たちでさえ、

人ならざるものを見るような目で灰堂を見ていた。

そして──

ハルを傷つけないように支えながら、形式的な逮捕手続きを進めるしかなかった。

言葉にならない嗚咽を発し震えているハルを見て、

灰堂は満足したように立ち上がり、

高級公用車へ乗り込んだ。

ゆっくりと去っていく車体を、

民衆の怒号が追いかけた。

怒号渦巻く広場の片隅で、

狐塚はただ、泣きながら地面に手をついていた。

誰も彼を見ようとしない。

誰も彼の言葉を聞こうとしない。

ただ、

「裏切り者」

「正義を踏みにじった男」

という罵声だけが、

彼の背中に降り続けていた。

その日の夕刻──

狐塚陽介は、公安部に辞職届を提出した。

理由欄には、たった一行だけ。

《自分は、もう誰も守れません》

上司の机に置かれたその紙は、

誰にも読まれず、

誰にも止められず、

ただ静かに受理された。

翌日。

狐塚は自宅を引き払い、

端末の契約をすべて解除し、

勤務記録からも姿を消した。

それ以降──

彼の消息を知る者は、

誰一人として現れなかった。

◆ 蔓月司法院・応接室

白銀歴1205年5月DD日 22:14

蔓月司法院の最上階。

夜景を見下ろす応接室には、

蔓月大審院総裁・蛭宮法継(ひるみや のりつぐ)と

灰堂公安部長の二人だけがいた。

重厚な木製テーブルの上で、

深紅のワインが静かに揺れている。

蛭宮

「いやぁ、見事だったよ灰堂君。

 あれらを証拠として扱えると……

 我々を揺らせると思っていたとはね。

 民衆というのは、いつの時代も愚かだ。」

灰堂は薄く笑い、

グラスを軽く傾けた。

灰堂

「ええ。

 王室が何をしようと、司法だけは踏み込めませんから。

 “法”は我々のものです。」

蛭宮は満足げに頷き、

窓の外の夜景へ視線を向けた。

蛭宮

「革命?

 倒閣?

 そんなものは表面だけだ。

 この国の根は、まだ我々の手の中にある。

 ……しかし、民衆が希望を持つ社会は良くない。

 税の流れが見直され、奴らは豊かになりつつある。

 家畜には過ぎた生活ぶりとは思わんかね?」

灰堂

「同感です。

 やはり王室は排除し、従来の秩序を回復させねばなりませんな。」

蛭宮

「うむ……。

 いざとなれば天宮城に魔王級の魔物を送り込めば済むくらいに思っていたが……

 本当かね? あの黒院君・白波君が、月京の小娘に負けたというのは。」

灰堂

「負けという言葉では足りません。

 おおよそ“闘い”と呼べるものですらない、

 一方的な蹂躙でした。

 それも──あれは殺意を向けたものではありませんでした。

 月京は“確保するつもり”で動いていた。

 恐らく、実力の一片すら見せていない。

 恥ずかしながら、私にはヤツの攻撃を認識することすら叶いませんでした。」

蛭宮

「し、信じられん……魔王の力を持つ二人が……。

しかもそれを二人同時に抑え込める者など、

 この国に存在するはずがない……。

 いや、世界にも……。」

蛭宮はワインを持つ手をわずかに震わせた。

それは黒院への失望でも白波への怒りでもない。

自分の中にある“国家の戦力評価が根底から覆った”ことへの恐怖だった。

灰堂

「今にして思えば──

 この世界には、“怪物じみた戦闘力”を持つと噂される者たちがいます。

 柳生の頭領しかり、星州連邦最高戦力しかり、黒曜騎士団の総隊長しかり……

 いずれも表舞台に姿を現しながら、その真の実力は世には知られていないとされる──

 人智を遥かに超えた力を持つと囁かれる者たちです。

 一部国家の上層部だけが掴んでいる、断片的な“裏の戦力評価”に過ぎませんが……。

 月京も、その系譜に連なるのでしょう。

 悔しいが、あの忌々しい王室の連中には……白兵戦では到底敵いますまい。

 では……やはり武力以外を用いる非対称戦しかございませんな。」

蛭宮

「そうだね。

 “王室は民衆を守りきれなかった”──

 そういった事件を起こし、非難を浴びせるよう仕向けてみようか。

 失敗したとして、こちらに実害は無い。

 ……例えば、子どもが巻き込まれる程度の“痛ましい事故”でも起こしてみるかね。

 民衆はその手の類に弱い。

 そして、王室の責任を問うには十分だろう。」

灰堂

「それは名案です。

 ……ちょうど、私を確保した“反逆者”たちの処理も必要でしたので。

 彼らにも、“事故の犠牲者”と“民衆を守った英雄”になってもらいましょう。

 内部の掃除と世論操作を同時に進められる。

 あのバカ女一人が死んだ程度でこの騒ぎですからね。

 利用できるものは、徹底的に利用すべきでしょう。」

二人は静かに笑い合い、

ワインのグラスが軽く触れ合った。

カチン──

乾いた音が応接室に響く。

その瞬間、

部屋の照明がふっと落ちた。

蛭宮

「……停電か?」

灰堂

「いや、そんなはずは──」

言葉の途中で、窓の外から“何か”が走った。

空気が裂けるような鋭い音。

次の瞬間──

蛭宮の身体が椅子ごと後ろへ倒れた。

照明が落ちているため詳細は見えないが、

大口径の長距離狙撃銃の一撃で即死したことだけは誰の目にも明らかだった。

灰堂

「……な……っ……!」

続けざまに、

灰堂の脚へ鋭い衝撃が走る。

膝が崩れ、床へ倒れ込んだ。

今度は小口径の対人狙撃銃によるものだ。

灰堂

「ぐ……っ……!」

警備設備は作動しない。

非常灯も、警報も、何も鳴らない。

それから半刻ほど、灰堂は応接室で震えていた。

「……警備は……警備は何をしているんだ……!?」

答える者はいない。

そして、暗闇の中──

ゆっくりと“黒ずくめの男”が歩み寄ってきた。

その歩き方は静かで、

まるで影が床を滑るようだった。

そして無言のまま、拳銃をゆっくりと構える。

その拳銃のシルエットを見た瞬間──

灰堂の心臓が跳ね上がった。

黒騎工廠(Kuroki Armament Systems / KAS)製の特別モデル。

LPSD専用の“静音回転式拳銃”──。

(……なぜそれを……

 誰が……持っている……)

灰堂の顔から血の気が引く。

(まさか……総監が隆宗に授与した、あの……)

恐怖が胸を締めつけた。

自分でも理由が分からないまま、灰堂は叫んでいた。

「わ、私はっ!!

 星都独立領ルナルナ・公共安全総局の公安部長、

 灰堂 鷹理だぞっ!!!」

その叫びは、

自分の肩書きにすがりつくような、

情けないほどの震えを含んでいた。

彼自身、なぜ叫んだのか分からなかった。

ましてや──

“自分はまだ守られるはずだ”という特権階級特有の甘い期待が

ほんの少し混じっていたことなど、

知る由もなかった。

男はただ、静かに引き金を引いた。

発射音は無い。

ただ、引き金が落ちる乾いた音が二度。

カチン。

カチン。

灰堂の身体がわずかに震え、

声を出そうとしても空気が漏れるだけだった。

肺が潰れ、言葉にならない。

男は無言のまま拳銃を収め、

灰堂の視界から消えた。

灰堂は理解した。

男が誰だったのか。

なぜ警備設備が落ちているのか。

なぜ自分が簡単に討たれたのか。

入庁早々にして

潜入、狙撃、諜報──

隠密試験のすべてで高得点を叩き出した男。

ただ、

「優しすぎる」

「虫一匹も殺せやしない」

「機密情報取り扱いに不適格」

という理由で不合格になった男。

その男が、

今は何のために動いているのか。

灰堂は今際の際にようやく理解できた。

権力で全てをねじ伏せてきた自分が、

最後の最後で権力を盾にしようとした。

しかしその盾は──

何の役にも立たなかったことを。

照明がゆっくりと戻る。

応接室には、

蛭宮法継と灰堂公安部長の静かな死だけが残されていた。

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