本編 第零章 前節『影光転義』

白銀歴1204年9月22日(月)
惑星ルナ=クラリオン 星都独立領ルナルナ
王室移動要塞《天宮城(うぐしろ)》

《宇宙海賊船ポンコツ丸、爆発事故。》《宇宙海賊ルルデス、死亡確定。》

少女は、自分の死亡記事を三回読んだ。

一回目は、内容を確認するため。
二回目は、誤字脱字を確認するため。
三回目は、自分がちゃんと死んでいることを喜ぶため。

記事にはDNA鑑定済みとある。
専門家も「生存の可能性はない」と断言している。
死亡者欄には、宇宙海賊ルルデスの名が堂々と記載されていた。

「いい仕事するね、報道機関」

六年間、あることないこと書かれ続けたが、最後の記事だけは百点である。
もっとも、生きているので、厳密には零点だった。

少女は端末を閉じ、王室移動要塞《天宮城》の静かな回廊を歩き続けた。
背中のバックパックには、各国の政治家、軍人、裁判官、企業、財団が泣いて取り返したがる不正の記録が詰まっている。

回廊の先に、巨大な扉が現れた。
その向こうにいるのは、腐敗した旧政府を倒した《ルナルナ三衛王室》。

正義の王室。民衆の味方。新時代の象徴。

王室が信用に値するかは、まだ分からない。
実態が宣伝どおりだった組織を、少女はまだ見たことがなかったからだ。

だが、父を殺した者たちへ近づくには、もう一人では限界だった。

音声ガイダンスが来客の到着を告げる。
少女は一度だけ深呼吸した。

「さて。正義の王室とやらが、どこまで本物か見せてもらおうかな」

重厚な扉が、静かに左右へ開いた。

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 序章 再起たけのこ譚
    序節 影光転義


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第一幕 虚報の光

天宮城の執務室《創天の間》

室内のホログラムスクリーンには、派手な女海賊の死亡報道が映っていた。

金髪。
褐色肌。
派手な化粧。
豊かな体格。

報道番組の出演者たちは、まるで憎悪を吐き出すかのように、彼女の死を当然の報いとして語っていた。

「悪辣極まりない犯罪者でしたね」
「ゼイオガメル議長を陥れたデマ・誹謗中傷の拡散者です」
「ファンも居たようですが信じられませんね。ただの犯罪者でしょうに」
「死んで当然でしょう」
「おとぎ話の義賊の名を騙るとは、おこがましいにも程がある」


ルナルナ国王・天峰 篁(あまみね たかむら)は、番組ではなく、手元の端末へ目を落としていた。
そこに表示されているのは、匿名の告発者から送られてきた膨大な調査記録だった。

隣では、ルナルナ王妃・天峰 笹真貴(あまみね ささまき)が、スクリーンに映る女海賊を静かに見つめている。
右手の黒い杖を軽く床へと打つ仕草には、王妃の優雅さとともに、かつて武を学んだ者の確かな重心が滲んでいた。

やがて、来客を告げる音声が室内に響き、扉が開く。
少女は腕を組み、深く頷いた。
「番組の出演者様の仰る通りですね。顔も派手だし」

王室の全員が少女を見た。少女は、スクリーンに映る女海賊を指差した。

現れた少女を見て、笹真貴はわずかに目を細めた。

画面に映る派手な女海賊とは、似ても似つかない。
青い光を帯びた黒髪。細身ながら筋肉質な長身の体格。そして、王室を前にしても臆した様子を見せない瞳。

笹真貴は彼女を静かに見つめながら、胸元にそっと手を添えた。
その指先が触れたのは、中心に漆黒のカケラが埋め込まれた小さなブローチ──
普段は衣の陰に隠れている“秘匿の装飾具”。
(……そう。私たちは、こうして巡り合う運命だったのね。)

少女は室内を見回した。
巨大な移動要塞の中枢にしては、意外なほど質素な部屋だった。

篁が端末を閉じ、少女へ問いかける。
「匿名で情報を送ってきた告発者が君であり、死亡したはずの宇宙海賊ルルデスも君である。そう考えてよいのかな?」

少女は大きく息を吸った。
そして、胸を張って答える。
「はい。事実無根の罪を着せられ、国際指名手配されたので、自分の死を偽装しました。」

一拍置いて、芝居がかった仕草で頭を下げる。
「宇宙海賊ルルデスこと、現在はジェネ・ルフェーブルと名乗っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。」

第二幕 名捨て人のレポート

少女は背負っていたバックパックを床へ下ろした。
中から取り出したのは、金髪のウィッグ、褐色肌を再現する化粧品、バスト増量(A→E)パッド、顔の輪郭を変える薄いマスク。
そして、報道映像の女海賊が身につけていた派手な衣装だった。

「ルルデスは、私が作った人物です♪」
少女はウィッグを掲げ、スクリーンに映る女海賊と見比べてみせた。

「正確には、六年間演じてきた人物、と言うべきでしょうか」

さらに少女は、そして増量パッドに隠された切れ込みを開けた。
その下から現れたのは、黒い記録媒体だった。

先ほどまでの芝居がかった態度が消える。
「王室へ匿名で送った情報は、この中のごく一部です」

「各国の政財界、企業、財団、軍、司法。私が六年間調査した記録の原本です。
 確証を得た案件だけでなく、途中で追跡できなくなったものも、意図的に消されたと思われるものも残してあります。」

篁の表情から、わずかな柔らかささえ消え、黒い媒体へ視線を向けた。
「この記録に名前はあるのかい?」

「決めていませんでしたけど……《ルルデスレポート》は如何でしょうか」

少女は、スクリーンに映る自分の死亡報道を振り返った。
「今日で死んだ彼女の、聖遺物ということで」

王の傍らに控えていた諜報機関の副官、布瀬 弥羽(ふせ みはね)が、一歩前へ出た。
濃紺のスーツを端正に着こなしており、立ち姿には隙がなく、指先の動きひとつにも計算された品がある。
「送付された資料の一部を、我々が保有する捜査記録と照合しました」

少女は笑顔を崩さない。
「結果はいかがでした?」

「偶然では説明できないほど一致しています。公表されていない改ざん前の数値まで含めて。」

「それなら、信じていただけますか?」

「えぇ、レポートについては」

布瀬 弥羽は、そこで言葉を切った。
「あなた自身については、まだです」

少女の笑みがわずかに固まった。

布瀬 弥羽は手元の端末を操作する。
「ジェネ・ルフェーブル。その姓を選んだ理由は理解できます。身元を追いにくい地域で、広く使われていますから。
 
 少し踏み込んで言えば、ガリアン共和国やヴェヌシア花冠王国の植⺠地奴隷に⼀般的な姓ですね。
 あの植民地区は国籍を持たない者が多く、⾝分を偽装するには最適。」

端末上に、いくつもの顔と名前が並んだ。
「投資家の恵子。探偵のドヌーヴ。宇宙海賊ルルデス。あなたは目的に応じて、名前も顔も使い分けてきた」
どれも正しい。
一つくらい、外してくれてもよかったのに。

少女は動揺を悟られないよう、肩をすくめた。
「便利ですよ。嫌になったら捨てられますから」

「けれど、最初の名前は一つしかございませんね?」

少女の表情から、笑みが消えた。

「惑星トト、ビルスタット居住区出身。六年前のトト壊滅事故後に避難し、そのまま行方不明となったルナルナ国民。
 こうしてルナ=クラリオンに足を踏み入れるのは、今日が初めてのはずです。
 そうですよね」

布瀬 弥羽は、静かにその名を呼んだ。
「フィニ・ウィアロークさん」

少女の指が、黒い記録媒体の縁を強くつかんだ。
「……そこまで分かっているんですね。感服いたしました。」

「否定はしないのですか?」

「否定するための名前なら、まだいくつかありますよ」

冗談めいた言葉だった。
だが、先ほどまでの軽さは戻らなかった。

フィニ。
それは数ある名前の中で、唯一、自分では捨てられなかった本名だった。

治安維持組織の総司令、兎団 将萌(とまる すすめ)が腕を組んだ。
彼女は、栗色の髪を高く束ね、赤と金の装甲を纏っており、金属義四肢が低い金属音を響かせる。
「名前遊びは終わりだ」

低い声が、室内の空気を引き締める。
「お前が何者かは分かった。今度は、ここへ来た理由を話せ」

フィニは黒い記録媒体を増量パッドへ戻した。
「父が殺された理由を知りたいんです」

室内から、わずかな物音さえ消えた。

天峰 笹真貴が目を見開いた。驚いたのは「殺された」という言葉にではないらしい。
フィニの姓か、それとも父という言葉か。そのどちらかに、王妃は反応していた。

初対面の相手へ向ける表情ではなかった。
フィニは、理由の分からない居心地の悪さを覚えた。

「父は惑星トトの研究者でした。でも、壊滅事故後の記録にも報道にも、ほとんど名前が残っていません」

兎団 将萌は表情を変えない。
「無名の研究者だった可能性は?」

「あります。父の論文は実現不可能と笑われることも多かったですから。
 だから最初は、私の思い込みだと考えようとしました。」

フィニは一度、言葉を止めた。
「でも、父の遺体を確認しに、何人もの見慣れない人たちがやってきたんです。」

「当然、サピエンティアの研究員でも、ビルスタット居住区の人間でもないんだな?何をしていた」

「安心していたんです」

フィニの声から、感情が消える。
「あの人が死んでよかった。これで秘密が守られる。私にはそう見えました。」

兎団 将萌が目を細める。
「それで宇宙海賊になったのか」

「父に関係する金と情報を追うためです。名前を変え、顔を変え、いくつもの国や私有地へ侵入してきました」

フィニはバックパックへ視線を落とす。
「六年間で、これだけの情報を集めました。でも、真相には届かなかった」

「その理由をどう分析している?」

「関係する研究所や施設へ近づくたび、証拠が私より先に消されるんです。情報源を変えても、国を変えても同じでした」

兎団 将萌の視線が、わずかに鋭くなる。
「一つの研究所だけではできない動きだな」

「はい」
フィニは顔を上げた。

フィニは顔を上げた。

次に口にする言葉には、隠れ蓑にできる名前がなかった。
ルルデスでも、ジェネ・ルフェーブルでも言えない。

「私一人では、もう無理です」

六年間、誰にも言わなかった言葉だった。

「《ルルデスレポート》を提供します。必要なら、あなた方の調査にも協力します」

天峰篁が尋ねた。
「その代わりに、王室へ父上の件を調べてほしいと?」

「いいえ」
フィニは即座に否定した。
「私にも調べさせていただきたいのです。王室が外部へ公開していない資料も含め。」

天峰篁が、少しだけ笑った。
「協力を求めながら、僕たちのことも信用していない様にも聞こえるね。」

「はい。信用できるか確かめるために来たのですから」

「随分と正直だね」

「一人では無理だと認めたので。今さら格好をつけても仕方ありません」

兎団 将萌は、バックパックに収められた黒い記録媒体へ視線を落とした。
「ならば、まず認識を合わせる必要がある」

「何についてですか?」

「お前を六年間追い回し、証拠を先回りして消してきた者たちについてだ」

第三幕 影の群れ

フィニは、黒い記録媒体へ視線を落とした。
「宇宙海賊として活動するうちに、気づいたことがあります」

先ほどまでの軽い口調は消えていた。
「各国の腐敗や犯罪を追うと、決まって邪魔が入るんです。特に、人身売買や言論弾圧に関わる案件では」

兎団は黙ったまま、続きを促した。
「妨害してくる者たちに、共通の旗や思想はありません。
 金融、軍事、政治、司法、教育、メディア。所属する国も業界も違います
」

フィニは、六年間の調査で集めた資料を端末上に展開した。
一見すると無関係な組織や人物が、資金と情報の流れによって結ばれている。

「明確な司令塔はいない。それなのに、都合が悪くなると互いに情報を流し、証拠を消し、
 私を犯罪者に仕立てて排除しようとした
」

フィニは王室の面々を見渡した。
「緩い連帯でつながった、複数の集団です。私には、そうとしか思えませんでした」

兎団は静かに頷いた。
「我々も、同じ結論に至っている」

フィニの表情が、わずかに変わった。

「理念も思想も業種も異なる。互いに反目することさえある。だが、利権を守る時だけは協力する」

「やっぱり……」

「ああ。奴らを結びつけているのは、忠誠でも信仰でもない。利益だ」

兎団は、フィニが示した資金の流れを指でなぞった。
「なかでも、奴らにとって都合のよい資金源が税金だ。
 民衆から強制的に集められ、国家や公的機関の名を使えば、表向きは正当な支出に見せられる」

別の資料が表示される。
教育予算の一部が、実態の乏しい外部団体へ流れた記録だった。

「帳簿上は、国の未来と人権を守るための事業だ。
 だが実際には、団体関係者の懐へ入り、その一部が政府関係者へ戻っていた」

フィニは資料を読み、眉をひそめた。
「国民のために集めたお金を、国民のためという名目で盗んでいる」

「そうだ。しかも、これは比較的単純な事例にすぎない」

兎団は資料を閉じた。
「王室では、こうした仕組みを利用し、各界に潜んで民衆を搾取する集団を“ウラガネ”と呼んでいる」

「ウラガネ……」
フィニは、その聞き慣れない言葉を口の中で確かめた。

「白銀暦(しらがねれき)の裏に潜む、民を搾取する影の群れだ。
 そして、その利権に群がる者を“ウラガネビト”と呼ぶ」

兎団の声が低くなる。
「奴らは一つの組織ではない。だから、頭を一つ潰せば終わる相手でもない。
 放置すれば、行政も司法も報道も内側から腐り、国そのものが民衆を搾取する道具へ変わる」

「あなた方の目的は、そのウラガネを排除することですか?」

「そうだ。まずは、この国に潜む連中をな」

兎団は即答した。
「国外から腐敗を持ち込む者も同じだ。奴らが国境を越えて利権をつなぐのなら、
 必要に応じてこちらも国境を越えて排除する」

「つまり、私が追ってきた者たちと、あなた方の敵は重なっている。
 そして王室の力を借りたければ、私もこの国のために働けということですね」

「そうだ。 いや、違うな。より正確には――」
兎団の返答に、フィニは目を上げた。

「互いに利用しろということだ」

兎団は、黒い記録媒体を指した。
「お前には情報と卓越した能力がある。我々には組織と権限がある。
 お前は父の死を追い、我々はウラガネを追う。その道が重なる間は、協力できる」

第四幕 たけのこ誕生

兎団 将萌は、卓上へ一枚の電子書面を表示した。
そこには、フィニの身分、権限、義務、監視条件が簡潔に記されていた。

正式な所属は、天宮城近衛騎士。
ただし当面は仮任用。機密資料への接触には個別の許可が必要となり、王室に対する調査や異議申し立ても禁じられてはいない。

フィニは書面へ目を走らせた。
「私が王室の不正を見つけた場合も、調べてよいのですか?」

王・篁は即答した。
「証拠があるならね」

「その証拠が、王室にとって不都合でも?」

「それを理由に君を罰すれば、僕たちも君が追ってきた者たちと同じになる」

フィニは、まだ納得しなかった。
「言葉だけなら、誰でも正義を名乗れます」

篁は小さく頷いた。
「そうだね。だから、これからの行動で判断してほしい」

「私があなた方を信用できないと判断したら?」

「去る自由は保障する。ただし、持ち出せない情報はある」

フィニはわずかに口元を緩めた。
「その答えは嫌いじゃありません」

兎団 将萌は書面をフィニの前へ送り、義手を差し出してきた。
「我々もお前を全面的に信用したわけではない。お前も我々を信用していない。
 ならば、互いに監視しながら始めればいい」

それは信頼関係とは呼べなかった。
だが、少なくとも一方だけが従う契約ではなかった。

フィニは差し出された手を見つめ、少し考えた。
魅力的な申し出だった。だが、善意だけの手ではない。
向こうは彼女の情報と能力を欲しがり、彼女は王室の権限を必要としている。
少なくとも、互いにそれを隠してはいなかった。

フィニは義手を握り返した。
「分かりました。あなた方の公正が本物か、私自身で確かめます」

「好きにしろ。」

仮任用を示す認証印が、書面の末尾に現れた。
その瞬間、フィニ・ウィアロークは天宮城近衛騎士となった。
少なくとも、書類の上では。

「よし、今 ここで装備を整えろ。殿方は目を逸らせ。」

兎団の声に反応し、諜報機関の長官、ゼルギウス・ユアが手を挙げる。
「わしは諜報機関の長。ならば、隅々までチェックすべきとは思わんかね?」

室内が静まり返った。
天峰 笹真貴は無言のまま視線を向け、兎団 将萌は理解できないものを見るように眉を寄せた。
布瀬 弥羽だけが、端末へ何かを短く入力している。

三人分の冷えた視線を受け、長官は咳払いとともに手を下ろした。

(今、ここで!?)
フィニは大げさに観念したような息を吐き、装備一式を受け取る。
渋々、背を向けて着替え始めた。
彼女は身長一七六センチのすらりとした体型で、動くたびにしなやかな筋肉が軽やかに躍った。
長い脚と引き締まった腰のラインは、まるでアスリートのように爽やかで、立ち姿にもどこか跳ねるような勢いがある。

装備を整えたフィニが纏っているのは、白銀の光を帯びた天ノ羽衣《天竹織羽(てんちくおりは)》。
腰には、天鋼から作られた王月武装《寝待太刀(ねまちだち)》が下がっている。

太刀を除き、装備は驚くほど軽かった。
フィニは寝待太刀をわずかに抜き、刃に走る淡い光を見つめた。
「これ、本当に《天鋼(セレスティウム)》製なんですか?」

「そうだ」

「実用品に加工されたものは初めて見ました。構造を調べても?」

兎団 将萌は眉をひそめた。

「分解するなよ」

「努力します」

「するな。
 短パンは私の趣味だ。よく似合う。お前のような妙齢の美少女なら、民衆受けも狙えるな。」

「び、美少女……」
そこだけは、少しうれしい。

「もちろん、妙齢の少女だからではない。貴様の能力を見込んで、だ」
美が消えた。

フィニは、口に出しかけた抗議をどうにか飲み込んだ。

「あのぅ…では私が敵…ウラガネの差し金だったらどうなさるおつもりだったんです?」

兎団は軽く指を鳴らした。
(^_-)☆
その合図に応じて、王室の特殊部隊隊員、チェッカード・セレグレアが、銃を肩に担ぎ、竹娘を指差しウィンクした。
その笑顔は、まるで『撃つまでもない、もう勝ってる』と言わんばかりだった。

布瀬 弥羽がくすりと笑い、小さな身分証を差し出した。
フィニは半ば期待しながら受け取り、その記載を読んだ。

天宮城近衛騎士 月京 竹娘(つきのみや たけのこ)

「……つきのみや…たけのこ?」

何度か口の中で転がしてみる。自分の名前ではない音がした。

「そう。月京家は、かぐや姫を輩出したルナルナの名家だ」
兎団 将萌が説明する。
「だが一族は暗殺され、現在は途絶えている。その事実を知る者は少ない」

フィニは身分証から目を上げた。
「存在しない一族の生き残りを、私に演じさせるのですか?」

「そうだ。名家の再来として民衆の前へ立てば、旧政府とウラガネへの圧になる」

「ずいぶん堂々と利用しますね」

「隠して善人ぶるよりはましだろう」

布瀬 弥羽が静かに言葉を加えた。
「もちろん、あなたが拒否するなら別の身分を用意します」

フィニはもう一度、身分証を見る。

ルルデス。
ジェネ・ルフェーブル。
投資家の恵子。
探偵のドヌーヴ。

必要に応じて作り、必要がなくなれば捨ててきた名前。
月京竹娘も、おそらくは同じだ。

「いえ。これで構いません」

「理由を聞いても?」

「かぐや姫の再来なんて、面白そうだから」
フィニは笑った。

仕事のための名前だ。
必要がなくなれば、また捨てればいい。

「では改めて、月京竹娘」

兎団 将萌が彼女を新しい名で呼んだ。竹娘は、ほんの一瞬だけ返事に遅れた。

「……はい」

まだ、その名前が自分を呼んでいるとは思えなかった。

面談を終えた竹娘は、天宮城の居住区へ案内された。
部屋の前には、二人分の名前が並んでいる。

月京 竹娘
餅月 兎娘(もちづき うさこ)

「相部屋なんですね」

案内役のアンドロイド職員が頷いた。
「餅月サンハ現在、長期潜入任務中デス。帰還後ハ、アナタノ相棒トシテ配置予定ナンデスッテ。」

竹娘は二つの表札を見比べた。

月京。餅月。
どちらも、かつてルナルナ随一の武家として名を馳せた家系だ。
まだ会ったことのない相棒も、自分と同じように、何かの役割を背負わされているのかもしれない。

「どんな人なんだろ」

小さくつぶやき、扉を開ける。

部屋は清潔だった。
必要な家具が揃い、窓の向こうには天宮城の白銀の外殻と、ルナ=クラリオンの夜空が見えた。
竹娘は感嘆するでもなく、バックパックを床へ置いた。

父の記録媒体だけを取り出し、机の上へ置く。
それから、何かを確かめるように扉へ戻った。

鍵の操作盤へ触れる。
内側から施錠できる。
それだけのことに、指が止まった。

「……鍵、内側から掛けていいんだ」

施錠音が、静かな部屋に響いた。

追跡者は入ってこない。
夜中に逃げ出す経路を確認する必要もない。
偽名を呼ばれて即座に目を覚ます必要もない。

少なくとも今夜だけは。

竹娘は《天竹織羽》を椅子の背へ掛け、ベッドに身を横たえた。

天井を見上げる。

フィニ。
ルルデス。
ジェネ。

そして、月京竹娘。

今日一日だけで、いくつもの名前を呼ばれた。
けれど、父が呼んでいた本当の名前だけは、もう聞くことができない。

机の上で、記録媒体が小さく光っている。
「パパ……パパ……やっと、ここまで来たよ」

声が少しだけ震えた。
「一人じゃ無理だって、ちゃんと認めたから」
竹娘は目元を腕で覆った。

(でも、諦めたわけじゃない)

「絶対に、全部暴いてみせるからね……」

天宮城の外を、夜風が流れていた。
白銀の外殻を撫でる低い音が、鍵を掛けたばかりの部屋へかすかに届いていた。

その夜、死んだはずの少女は、初めて月京竹娘として眠った。
その名の先に、温かな食卓も、馬鹿げた騒動も、目を背けたくなる夜も待っていることを、彼女はまだ知らない。

影光転義(完)

→次の物語へ:序章『再起たけのこ譚』続節「月影に残されたふたつの欠片─ルナルナ再誕録を経て」

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