本章ノ参 四節「燻褪闇進天極記:サタンレコード」
――一人の少女の涙が、
世界の闇を暴き、天を揺るがす“古き悪魔の力”を地獄の底から呼び戻した。
これは“デア”という名の光が、
絶望の果てで闇へと姿を変え、
新たな“サタン”が歩み始めた千二百年の記録である。
─────────────────────
本章ノ参 獄宙変化史 編
四節 燻褪闇進天極記:サタンレコード
- 1.首席卒業の日
- 2.差し伸べられた手
- 3.デズモンドの影
- 4.告白
- 5.禍胎儀式:絶望の始まり
- 6.逃走
- 7.廃村での一夜
- 8.覚醒 ― “理想の自分”
- 9.魔女狩り:サタン誕生
- 10.再会と別れ
- 11.人ならざる者のほうが、人を知っていた
- 12.エリュシオンの白い庭
- 13.エピローグ ― 罪と赦しの1200年
──────────────────────
1.首席卒業の日
白銀歴4年 3月22日(土)
惑星アルビオン=ネブラス アルビオニア王国
最高学府 星叡院(せいえいいん)・セントラザフォード・カレッジ 大講堂
天井に浮かぶ星雲ホログラムがゆっくりと回転し、卒業生たちの未来を照らしている。
壇上へと続く階段の前で、一台の車椅子が静かに止まった。
デア・ポップフェラー。
そして、その隣に立つのは――
次席卒業のデズモンド・スペンサー。
「……行けるかい?」
デズモンドが小声で問い、デアは小さく頷いた。
「はい……」
デズモンドは彼女の細い腕をそっと取り、ゆっくりと車椅子から立たせた。
一歩、踏み出す。その瞬間、鋭い痛みが脚を走った。
(……痛い……でも……)
デアは横目でデズモンドの横顔を見た。凛々しく、優しく、誰よりもまっすぐな横顔。
(……こんな素敵な人の横顔を、私なんかが独り占めしていいの……?)
胸が熱くなり、痛みさえ甘く感じた。
二人はゆっくりと壇上へ上がり、並んで表彰台に立った。
華奢な少女の白いアカデミックドレスは、細い肩に少し大きく見えた。
だが、その顔立ちは息を呑むほど整っており、自然と視線を集めていた。
「首席飛級卒業、おめでとうございます」
拍手が降り注ぐ。
だが、デアの胸はどこか空虚だった。
――私は、もう長く生きられない。
医師から告げられた余命は一年未満。
ポップフェラー家はその事実を「役に立たない娘の処分期限」としか見ていなかった。
それでも、今日だけは胸を張りたかった。
視線を横へ向けた瞬間、デアの心臓が跳ねた。
デズモンドが、自分を見て微笑んでいたから。
その微笑みの裏で、デズモンド自身も胸の奥に小さな痛みを覚えていた。
(……また、君に救われてしまうな)
自分より弱いはずの少女が、自分より高い場所に立っている。
その事実が――
誇らしくて、悔しくて、嬉しくて、苦しかった。
デアの胸の奥に甘い痛みが走る。
(……今日だけでいい。
今日だけ、私は幸せでいたい)
拍手が鳴り止まぬ中、
壇上から降りたデアとデズモンドのもとへ、数人の男子学生が駆け寄ってきた。
「へい!デズモンド!デアちゃん!首席と次席のツーショット、撮らせろって!」
「いやツーショットじゃ足りねぇだろ。俺らも入んねぇと。ほらほら寄れ寄れ!」
明るい声と笑い声が重なり、デアは思わず目を瞬いた。
(……この人たち、いつも……)
デアがいじめられていた頃、彼らはさりげなく間に入ってくれた。
教科書を拾ってくれたり、「今日一緒に食堂行こうぜ」と誘ってくれたり。
大げさに守るのではなく、
“普通に接する”ことで彼女を孤立させなかった。
デズモンドも苦笑しながら肩をすくめた。
「……仕方ないな。ほら、デア、真ん中に」
「え、わ、私……?」
「当然でございます、皇太子妃サマ。今日の主役ですからね〜!」
男子たちが一斉に笑い、自然にデアを囲む。
「おい言いすぎだろ、それじゃデズモ……殿下サマが照れるって!」
「いやいや、もう照れてるぞほら!ほら殿下、もっと皇太子妃に寄って~くっついて〜!」
「お前ら……後で覚えとけよ……」
デズモンドは耳まで赤くしながら、それでもデアの肩にそっと手を添えた。
「え、あ……うん……///」
男子たちが肩を寄せ、デアはその中心で、困ったようにも見える顔で小さく笑った。
シャッター音が響く。
その一瞬は、デアにとって“生きていてよかった”と思えるほど温かかった。
2.差し伸べられた手
入学して間もない頃。
デア・ポップフェラーは、すでに“噂”の中心にいた。
――ポップフェラー家の中で、あの子だけ扱いが違うらしい。
――家族に愛されていないんだって。
――病弱で、役に立たないから。
そんな陰口が広まるのに、時間はかからなかった。
そして噂は、カースト上位の女子たちの耳にも届いた。
「ねぇ、病弱なお姫様って本当にお勉強しか取り柄がないの?」
「触らないでよ。病気がうつるかもしれないじゃない」
机を隠され、教科書を破られ、すれ違うたびに聞こえる嘲笑。
それでもデアは笑って耐えた。泣けば、もっと惨めになる気がした。
(……大丈夫。私は、泣かない……)
そう自分に言い聞かせていた。
だがある日、階段の踊り場で背中を押され、視界がぐらりと傾いた。
――落ちる。
そう思った瞬間。
「危ない!」
強い腕が、デアの身体を引き寄せた。
デズモンド・スペンサーだった。
「君たち、やりすぎだ。恥を知れ」
その声は低く、怒りを押し殺していた。
女子たちは怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
デアは震える声で礼を言った。
「……ありがとう、デズモンド」
「気にするな。君は誰より努力してる。僕は知ってるよ」
その言葉は、デアの胸に小さな灯をともした。
――初めて、自分を見てくれた人。
だがその瞬間、
デズモンドの胸にも別の感情が生まれていた。
(……弱い者を助けるのは当然だ。
なのに、なぜ僕は“良く思われたい”なんて……)
胸の奥に、
ひどく嫌なざらつきが残った。“打算”が確かにあった。
それが彼を深く自己嫌悪へと沈める。
(……最低だ、僕は)
だがその自己嫌悪こそが、
彼をより強くデアへ向かわせることになった。
3.デズモンドの影
デズモンド・スペンサーには、誰にも語らない“影”があった。
幼い頃から、兄ユリウス・スペンサー と比較され続けた。
兄は王位継承者。完璧で、強く、賢かった。
デズモンドは――
その“予備”。
父アルトリウス王はいつも言った。
「お前は二番でいい。
だが、二番のまま死ぬな。
誰かを踏みつけてでも、価値を証明しろ」
その言葉は、
少年の心を静かに歪めていった。
(……僕は、誰かより上に立たなければ価値がない)
そう思い込むようになった。
だからこそ、デア・ポップフェラーの存在は、
彼にとって説明のつかない“痛み”だった。
虚弱で、家族に愛されず、誰にも期待されていない少女。
なのに――
彼女は自分より優秀な成績を取った。
(……どうしてだ。
どうして君は、そんな身体で……)
悔しさと、
嫉妬と、
そして――
言葉にできない温かさ。
矛盾した感情が胸の奥で渦巻いた。
だが、
デアと過ごす時間は、
その全てを静かに溶かしていった。
・安心して何でも話せる相手
・自分を否定しない相手
・自分より弱いからこそ、自分を受け入れてくれる相手
(……僕は、君の前では“二番”じゃなくていい)
その歪んだ安心感に、デズモンドは気づかないふりをした。
ある日、
男子グループがデアとの仲をからかってきた。
「おい殿下〜、またデアちゃんと勉強デートかよ〜?」
「お前ら、邪魔すんなよ。デートの邪魔をするんじゃねぇ。」
冗談半分で言い返したつもりだったが、自分でも驚くほど声が荒れていた。
男子たちは笑いながら去っていったが、デズモンドの胸はざわついていた。
(……恋じゃない。
そんなはずはない。
でも……今は少しでも一緒にいたい)
自分の感情が何なのか、
彼自身が一番わかっていなかった。
そして――
運命の日。
医療データベースで、デアのカルテを偶然目にした。
“余命一年未満” 胸が締めつけられた。
(……そんなはずがない。
君は……僕より先にいなくなるなんて……)
哀れみ。
使命感。
恐怖。
そして――
失いたくないという、
あまりにも利己的な願い。
その全部が混ざり合い、彼の心を深く揺さぶった。
(……僕が支えなければ。
僕が守らなければ。
僕が……君のそばにいなければ)
ただ――彼自身が救われたかった。
デアの存在は、デズモンドにとって“救い”であり“依存”だった。
4.告白
白銀歴4年 3月22日(土)夜
ポップフェラー家の邸宅では、
長男ヴァリオンの“社交界お披露目会”が開かれていた。
豪奢なシャンデリアが煌めき、
貴族たちはワイン片手に談笑し、
家の威信を競うように笑顔を振りまいている。
その華やかな中心で――
デアは家族に囲まれていた。
もっとも、それは祝福ではない。
「首席卒業の娘がいる家」という体裁を整えるための、
ただの“飾り”として立たされているだけだった。
デアが纏っていたのは、
白銀の光を受けて淡く輝くパーティドレス。
肩から胸元にかけて繊細なレースが流れ、
腰のあたりでふわりと広がるシルエットは、
まるで天使の羽根を思わせるほど軽やかだった。
銀糸で縫い込まれた刺繍が、
動くたびに星屑のように瞬く。
その美しさは、
彼女自身の儚さを際立たせていた。
「よくやったわ、デア。あなたは我が家の誇りよ」
母メディーナの言葉は、まるで台本を読み上げるように乾いていた。
デアは微笑みを作ったが、
その瞳はどこか遠くを見ていた。
だが――
それでもデアは胸が熱くなった。
(……お母様に……褒められた……)
涙がこぼれそうになる。
今日が人生で初めて、家族に褒められた日だったから。
その横で、兄ヴァリオンが薄く笑った。
「首席卒業、ねぇ……ふん。まぁ、家の名を汚さなかっただけマシか」
祝福ではない。
まるで、手元から離れた玩具が“思いがけず役に立った”とでも言いたげな笑み。
その目には、 妹を見下す冷たさと、 説明のつかない執着が静かに潜んでいた。
デアは胸の奥がざわつき、 そっと視線を逸らした。
(……私なんて……
この家には……必要ないのに……)
周囲の貴族たちは、デアの首席卒業を話題にしながらも、彼女ではなくヴァリオンへと視線を向けていた。
「妹君が優秀だと、兄君の株も上がりますな」
「さすがポップフェラー家だ」
デアはただの“家の飾り”。
誰も彼女自身を見ていない。
――その時だった。
会場の空気が、ふっと変わった。
入口に立つ青年に、人々の視線が吸い寄せられたのだ。
豪奢な金髪に整った軍服。凛とした佇まい。
そして――
まっすぐにデアだけを見つめる瞳。
デアは息を呑んだ。
(……デズモンド……)
彼は人混みをゆっくりと歩き、まるで他の誰も存在しないかのように、デアの前で足を止めた。
「改めて、首席卒業おめでとう。君なら当然だと思っていたよ」
その声を聞いた瞬間、
デアの胸は温かく満たされた。
(……来てくれた……)
デズモンドは微笑んでいたが、その奥にはわずかな陰りがあった。
――彼女が卒業式で痛みに耐えていることに、自分は気づけなかった。
その罪悪感が、彼の胸を静かに締めつけていた。
デアは勇気を振り絞り、彼を庭園へ誘った。
夜風が頬を撫で、星明かりが二人を照らす。 静かな噴水の音が、遠くでかすかに響いていた。
デアは胸の前で指をぎゅっと握りしめた。
(……言わなきゃ。 今日を逃したら、もう言えない)
だが、口を開く前に―― デズモンドがふっと笑った。
「……覚えてるかい? 入学したばかりの頃、君がノートを全部写させてくれたこと」
デアは目を瞬いた。
「え……あれは、デズモンドが風邪で休んでたから……」
「あれは助かったよ。 君の字、綺麗で読みやすいんだ。 僕のよりずっと。」
「そ、そんな……」
二人は自然と笑い合った。 4年弱の積み重ねが、言葉の端々に滲んでいた。
デアは胸が温かくなる。
(……こんな時間が、ずっと続けばいいのに……)
ふと、デアは思い出したように顔を上げた。
「ねぇ、デズモンド。あの……前に話してた“エリュシオン植物園”……覚えてる?」
「もちろん。王都の外れに建設中の、あの巨大な植物園だろう?完成予定は……二年後だったかな。」
「うん……」 デアは小さく微笑んだ。
「……一緒に行けたら、素敵だなって……思って」
夜風が止まり、 星明かりが二人の間に静かに降りた。
その瞬間―― デズモンドの胸に、冷たい痛みが走った。
“余命一年未満”
カルテの文字が、 まるで焼き付いたように脳裏に浮かぶ。
それでも彼は、 その痛みを押し隠すように柔らかく微笑んだ。
「……ああ。行こう。君となら、どこへでも」
デアの胸がぎゅっと締めつけられた。
(……行けないのに…… 私は……もう……)
それでも―― 言いたかった。
“あなたと未来を見たかった”と。
デアは深く息を吸い、 震える声で言った。
「デズモンド……お願いがあるの」
「なんだい?」
喉が震える。
声が出ない。
でも――言わなきゃ。
「今日だけでいい。
今日だけ……私の恋人になってほしいの」
言った瞬間、
心臓が破裂しそうだった。
沈黙。
デズモンドの胸に、鋭い痛みが走った。
(……今日だけ?)
次の瞬間、彼はデアを抱きしめていた。
「今日だけなんて言うな。……ずっと一緒にいる」
その言葉を口にした瞬間、
デズモンドの胸では罪悪感と本当にそうなりたい願望がぶつかり合った。
だがデアは――
(……夢みたい……私……私……生きててよかった……)
涙が頬を伝い、胸の奥が光で満たされていくようだった。
5.禍胎儀式:絶望の始まり
パーティが終わりに近づいた頃、母がデアを呼んだ。
「デア、こちらへいらっしゃい。大切な話があるの」
その声音は、いつもより柔らかく聞こえた。
(……お母様が、優しい……)
胸が温かくなり、デアは疑いもせず母の後をついていった。
だが――
連れて行かれたのは邸宅の奥、
普段は鍵がかけられているはずの地下への扉だった。
冷たい石の階段を降りるたび、胸の奥で小さな不安が膨らんでいく。
(……ここは……?)
階段を降り切った瞬間、視界が開けた。
《深淵の胎廊(アビス・ウーム)》
巨大な祭壇。
磔台。
禍々しい紋様。
青白い炎が揺らめき、空気は血と鉄の匂いで満ちていた。
そして奥には――
黒い肉塊に牙と眼が無数に混じり合った、全長数十メートルの異形。
変異魔獣ムタトゥス・フォルバチアス
「……お母様、これは……?」
母は微笑んだ。
その笑みは愛情ではなく、狂気と期待に満ちていた。
「あなたは今日から、ポップフェラー家の力の源となるのよ。誇りに思いなさい」
背筋が凍りついた。
逃げようとした瞬間、ムタトゥスの触手がデアの四肢を絡め取り、冷たい力で磔台へと引きずり戻した。
「助けて……!」
母は一歩だけ後ずさり、
まるで“儀式の進行を邪魔しないように”という配慮だけを残して、静かにその場を離れた。
デアの叫びにも振り返らない。
娘を見捨てたのではなく――
“役目を果たす道具”として扱っているだけの目だった。
残った兄は、恍惚とした目で――いや、好奇と残酷さの混じった目でデアを見下ろしていた。
ポップフェラー家が代々続けてきた“禍胎儀式”。
それは 2つに割れた紫色の悪魔のカケラを使う、異常な儀式だった。
通常のカケラは対象を魔物へ変えるだけだが、
このカケラは力が強すぎるのか、対象をさらに異形へ、さらに異質に変質させる。
- 心臓に埋め込まれた者は“禍胎”へ。
- 子宮に埋め込まれた者は“禍胎児”を宿す器へ。
ヴァリオンは笑いながら言った。
「お前は――両方だよ。
……分からなくていい。どうせすぐ分かる」
デアは、“禍胎児を産む禍胎”という、最も苛酷な器として選ばれたのだ。
“禍胎”も“禍胎児”も、最終的にはムタトゥスへの供物とされる。
その見返りとして、ポップフェラー家はムタトゥスが生み出す魔物を使い、政敵を密かに排除してきた。
2本の器具が胸と下腹部に押し当てられる。
「ゃ……め……やめて……!」
デアの嘆願も届かず、金属音とともに脳髄を砕くかの様な激痛が身体を貫いた。
視界が白く弾け、呼吸が乱れる。
致命傷のはずなのに、傷口は紫色の光を放ちながら修復されていく。
(……痛い……苦しい……誰か……)
「……さて」
兄が薄気味悪い笑みを浮かべ、ズボンのベルトをほどきながらデアへ歩み寄った。
「……始めようか。“壊れ物”」
その言葉だけで、デアの心は凍りついた。
触手に拘束されたまま、ヴァリオンに馬乗りにされ意識が遠のきかける。
「安心しろよ。お前の価値なんて最初から“これ”だけだ。」
――助けて。誰か……!
その願いに応えるように、扉が勢いよく開いた。
「デア!」
デズモンドが駆け寄ってきた。
「デズ……モンド……」
デアの目から涙が溢れる。
見たこともない巨大な魔物、磔台、そして蹂躙されかけていたデア。
デズモンドの胸に怒りと恐怖が渦巻いた。
「彼女を放せ!」
(大丈夫。僕が君を助ける)
その心の声は、彼自身の恐怖を押し殺したものだった。
6.逃走
「……くっ、いいとこで邪魔しやがって!」
ヴァリオンが電気鞭に手を伸ばし、振り上げた瞬間――
デズモンドが咄嗟に兄へ飛び込み、横から蹴り飛ばした。
電気鞭は空を切り、
反動で兄の手から滑り落ちる。
「なっ――」
落ちた鞭は床で跳ね返り、
ヴァリオンの下半身に絡みついた。
「ぎぃゃああああああああっ!!」
自分の電撃を全身に浴び、ヴァリオンは白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
あまりにもあっけない気絶だった。
デズモンドは荒い息を吐きながら叫ぶ。
「……行くぞ!」
ムタトゥスの触手を斬り、デアを抱き上げ、儀式場を飛び出す。
背後からムタトゥスの咆哮が空気を震わせた。
邸宅を抜け、
デアを抱えたまま夜の森へと駆け込む。
「……デズ……モンド……どこ……に……」
「分からない。でも王宮には戻れない。
父も“悪魔”を利用している。君を守れない」
「もういいの!……家に戻――」
「嫌だ!僕たちだけで逃げる!」
その声は、
彼自身の願望の叫びでもあった。
7.廃村での一夜
森を抜け、
二人は朽ち果てた廃村へとたどり着いた。
屋根の抜けた家々。
風に揺れる草の音だけが響く、
誰もいない場所。
デズモンドは倒れそうなデアを抱え、
まだ形を保っている小屋へ入った。
「デア、横になって。もう大丈夫だ……僕がいる」
抱えられているだけでも、虚弱な彼女の身体は限界に近かった。
デアは息を荒げながら、かすかに微笑んだ。
「……ごめんなさい……もう……私……」
「謝るな。君は……よく頑張った」
デズモンドは震える手で、
デアの額の汗をそっと拭った。
その手つきは、まるで壊れ物を扱うように優しかった。
しばらくして、デアは小さく呟いた。
「……デズモンド……
今日だけでいいから……そばにいて……」
その声は弱々しく、けれど確かに“願い”だった。
デズモンドは迷わず頷いた。
「さっきも言っただろ?今日だけなんて言わないでくれ。どこにも行かない」
デアは混濁する意識の中、震える指で、彼の服の裾をそっと掴んだ。
「……私……あなたのものに……なりたい……」
デズモンドの呼吸が止まった。
次の瞬間、
デアは静かに触れるだけの、優しい口づけをした。
それだけで胸の奥が光で満たされるような、
一生に一度の幸福があった。
その夜、二人は寄り添って眠った。
痛みも、恐怖も、
その夜だけは遠くにあった。
(……ああ……ごめんなさい……
私……あなたの……
最後の女で……いたかった……)
涙が頬を伝えた。
デズモンドはその涙を指で拭いながら、何度も何度も彼女の名を呼んだ。
(デア……
君は……生きていていいんだ……
僕のそばにいていいんだ……
僕は……君に生きてほしい……)
小屋のランプはいつの間にか消え、外套はデアの肩にかけられていた。
彼女の髪は少し乱れ、デズモンドの胸元には、彼女が掴んだ跡が残っていた。
デアは微笑み、
その温もりを胸に刻んだ。
「……ありがとう、デズモンド」
「……僕の方こそ」
それ以上、
どちらも言葉を続けなかった。
8.覚醒 ― “理想の自分”
夜明け前。
廃村の小屋に、かすかな光が差し込んだ。
デアは浅い呼吸を繰り返しながら、胸を押さえていた。
(……デズ……モンド……
私……まだ……生きていたい……
一緒に……いたい……)
その願いは弱々しく、
けれど確かに“生”を求める声だった。
胸の奥で、紫色の光が脈動し始める。
ドクン――
ドクン――
「どうした……?」
デズモンドが駆け寄った瞬間、デアの身体が紫の光に包まれた。
(……いや……死にたくない……
生きたい……デズモンドと……)
その叫びが、カケラを触媒に、デアを神通力発現可能な個体へと進化させた。
悪魔のカケラが人格を持ち、
デアの中に“もう一人”が生まれる。
光が弾け――
小屋の壁が震えた。
光が収まった時、そこに立っていたのは――
金髪は縦ロールに輝き、
背には天使のような羽。
はちきれんばかりの胸、
ミニスカートの天使のような姿。
それは、デアが密かに憧れていた“理想の自分”。
顔は変わらない。
だが血色が良く、まるで別人のように美しかった。
「………………」
デズモンドは固まった。
「………………」
デアも固まった。
二人とも、口が半開きのまま動かない。
デアは、少し不安そうに首を傾げた。
「……え……? これ……私……? 身体……痛くない」
デズモンド
「………………すごい……なんだこれは……あのカケラの影響、なのか?」
完全に思考が停止していた。
デアは頬を赤らめ、指をつんと合わせた。
「……あの……デズモンド……
昨日……その……いろいろ……
“途中で終わっちゃった”よね……?」
デズモンド
「!? いや僕はちゃんと一回――」
デア(かぶせ気味に)
「……その……元気になったから……
“続き”を……その……三回くらい……」
デズモンド
「三……っ……!?」
小屋の中に、場違いなほど明るい空気が流れた。
デズモンドは顔を覆い、
デアは耳まで真っ赤になって俯いた。
数時間後――
デズモンド
「片手じゃ足りなかった……
……いや、いいんだ……落ち着こう……」
デズモンドは深く息を吸い、
無理やり気持ちを切り替えるように真剣な表情に戻った。
「……デア。
君を国外へ逃がす手筈を整える。
僕は……アルビオニアに残る」
「え……?」
「君を追う者たちを止めるには、
僕がここに残るしかない。
君は行方不明となり、別人として暮らすんだ。
あのカケラを宿す君を……
ポップフェラー家も、僕の家族も諦めないだろう」
デアの胸が痛んだ。
「……もう……私たち……
その……会え――」
デズモンドは、
その続きを言わせまいとするように、静かに、しかし強い声で遮った。
「来年には兄が即位する。
その後なら僕だって……約束だ、必ず迎えに行く。
だから……とにかく 生きていてくれ」
その笑みは、優しくて、そしてどこか寂しかった。
デアは唇を噛んだ。
涙がこぼれそうになる。
「……ありがとう……
待ってる……ずっと……」
二人は抱きしめ合った。
9.魔女狩り:サタン誕生
白銀歴6年 2月22日(月)
惑星ヴォータニア ゲルマニア公国の片隅にある小さな農村
デアは「アーデル・ホフヌング」と名を変え暮らしていた。
髪型を変え、服装も質素にし、目立たぬように息を潜めて。
だが――
その優しさだけは変わらなかった。
「病気の子を助けてくれたんだ」
「畑の手伝いもしてくれた。天使みたいな子だよ」
村人たちは、彼女を“光の娘”と呼んだ。
デアは微笑んだ。
(……ここなら……生きていける……
もうすぐデズモンドも来てくれる……)
本当は2月20日に到着予定だった。
だが星間航行ルートの乱流で、数日遅れると連絡があった。
胸の奥に宿る“もう一人の人格”――サタンは、静かに彼女を見守っていた。
(……お前は 人の悪意を知ってもなお 優しすぎる……
それがいつか……)
だがその声は、デアには届かない。
同じ心にいながら、ふたりの声は決して触れ合わなかった。
その日、村に低い振動音が響いた。
空を切り裂くように、小型飛空艇(スカイ・キャリッジ) が降下してきた。
銀色の船体には、貴族家の紋章が刻まれている。
「この村に“異形の力”を持つ娘がいると聞いた」
兵士たちが降り立つと、村人たちは慌ててデアを庇った。
「おやおや、そんな子など――」
老人が言い終える前に、飛空艇の警告音が短く鳴り、彼はその場に崩れ落ちた。
村人たちは息を呑む。
貴族たちは、人の命を“確認作業”程度にしか扱っていなかった。
「治癒の奇跡?魔術だろう」
「魔女は国家の敵だ」
「庇うなら、村ごと処分するだけだ」
その言葉に、デアの心臓が強く脈打つ。
彼女は静かに前へ出た。
「やめてください……!
……わたしです。村の人は……どうか……」
兵士たちはデアを取り囲んだ。
デアは抵抗しなかった。
(……逃げれば、村の人が傷つく……それだけは……嫌……)
サタン人格が叫ぶ。
(馬鹿者!! 抗え!!お前はもう“ただの人間”じゃない!!)
だがその声は、
デアの心には届かない。
兵士に腕を掴まれた瞬間、
胸の奥の光がかすかに揺れた。
(……だめ……)
デアの指先が震える。
(……力を使えば…… この人たちも……死んじゃう……)
サタン
(だからこそ抗うんだ!!)
だがその叫びも、デアには届かない。
(誰かを傷つけるくらいなら……
私は……何もできなくていい……)
サタン
(…… ……)
デアは目を閉じた。
彼女は“守るために戦う”という発想を持てない。 力を使えば誰かが傷つく―― その恐怖が、神通力の発動を完全に封じていた。
兵士たちは彼女を拘束し、飛空艇へ押し込んだ。
村人たちの叫びが響く。
「やめろ!!」
「その子は魔女なんかじゃない!!」
「ただの優しい娘だ!」
「病気の子を助けてくれただけだ!」
だが、貴族たちは冷笑を浮かべるだけだった。
デアが連れていかれたのは、森の外れにある旧式の訓練施設。
彼女は拘束具に固定され、兵士たちは距離を取り、武器を構えた。
「たまには腕を鈍らせぬように…な。始めろ」
乾いた音が、一定の間隔で響く。
衝撃が身体を揺らす。
痛みは確かにあったはずなのに――
次第に、その痛みすら遠くなっていく。
サタン人格が叫ぶ。
(やめろ!! 死ぬな!!お前が死ねば……私は……!!)
だが、デアの意識は遠のいていく。
世界の輪郭が薄れ、
音が消え、
光が滲む。
(……デズモンド…… ねぇ……聞いて……)
光が揺れた。 痛みも、寒さも、もう遠い。
気づくと―― デアは 緑に満ちた温室の中 に立っていた。
柔らかな陽光。 透明なガラス越しの青空。 白い花が風に揺れ、 遠くで水音が響いている。
――エリュシオン植物園。
(……あ……ここ…… あなたと……来たかった場所……)
ふと横を見ると、 デズモンドが立っていた。 あの日の庭園と同じ、優しい微笑みで。
(……デズモンド…… 約束……覚えてる……?)
彼は何も言わない。 けれど、そこに“いる”だけで十分だった。
デアはそっと手を伸ばした。 触れられないと分かっていても。
(…… 一緒に……行こうって…… 言ってくれたよね……)
花びらが舞い、 世界が白く滲んでいく。
(……わかってた……嘘だって それでも……嬉しかった……)
胸の奥で、光がふっと揺れた。
(……デズモンド…… 私……先に行ってるね…… あなたが来るその日まで…… ここで……待ってる……)
その声は、 世界のどこにも届かないまま、 静かに消えていった。
そして――
デアの意識は静かに落ちていった。
次の瞬間、
デアの身体を包む空気が変わった。
傷は瞬時に完治しゆっくりと顔を上げたその瞳は、恐怖も痛みも宿していない。
同じ顔、しかし冷たく、全く異なる表情。
兵士たちは後ずさる。
「な……なんだ……あれは……」
「生きて……いる……?」
「化け物だ……!」
サタンは拘束具を外し、
ふらりと森の奥へ歩き出した。
(……デア……
お前の願いは、ここで絶やさせはしない……
生きることも……
そして……)
デアの心は戻らない。
こうして――
デア・ポップフェラーは“死に”、 魔王サタンが生まれた。
10.再会と別れ
サタンは処刑場から歩いて村へ戻る。
村人たちは驚愕しつつも――
- 「生きて帰ってきた」安堵
- しかし“何かが変わった”という本能的な恐怖
この二つが入り混じった複雑な感情を抱く。
「……アーデルちゃん、なのかい……?」
「よかった……生きて……」
(でも……どうやって……?)
サタンは穏やかに微笑む。
その微笑みは“優しいアーデル”に限りなく近いが、どこか違う。
(……デアの願いは守る。この村を傷つけさせない……)
村人は彼女を受け入れた。
恐れながらも、守られた恩義が勝っていた。
翌日 白銀歴6年2月23日(火)
村に、一台の飛空艇も従者も連れず、
ただ一人の青年が現れた。
(……必ず迎えに行く。あの日、そう誓ったんだ)
村人はざわめく。
「……あれは……近隣国の王子じゃないか……?」
「従者も連れずに……どうしてこんな村へ……?」
青年の視線が、
ひとりの女性に吸い寄せられた。
女性はゆっくりと振り返った。
(来てくれたのか――
…デア。
お前の愛した男は、確かに…
確かに約束を守ったぞ)
その瞳は、深い紫色に揺れていた。
「……デズモンド……来てくれたのね……」
声は柔らかく、仕草も、表情も、まるでデアそのものだった。
デズモンドの胸が熱くなる。
(……やっと……会えた……)
だが――
次の瞬間、彼の表情がわずかに曇った。
「……少し、向こうで昔話をしないか?」
静かな声だった。
村の外れにある湖畔ー
デズモンドは唐突に、学生時代の話を始めた。
「図書館で君が薦めてくれた植物学の本……
2章までしか読んでない状態で薬草を探したら、
そっくりの毒草を採ってしまってたんだ。」
「学園祭の日、
君がアナウンスを出していた放送室で……
こっそりチョコレートを食べたね」
どれも二人しか知らないエピソード。
サタンはデアの記憶を頼りに、整合性のある受け答えを返した。
だが――
デズモンドの顔はどんどん曇っていく。
返事は正しい。 でも “温度” が違う。 言葉の端に、デアの癖がない。 笑い方が違う。 呼吸の間が違う。
まるで、“記憶だけをなぞっている誰か” のように。
そしてデズモンドは、
まるで“誰かに懺悔するように”語り始めた。
「……僕は……
デアに最初に近づいたのは、打算だったんだ」
サタンの瞳が揺れた。
「弱き者を助ける善人として振る舞えば、
周りの尊敬を得られる。
そんな浅ましい理由だった」
デズモンドの声は震えていた。
「彼女を助けていたのは……
哀れみで、同情で……
卒業式の日に“恋人になってほしい”と言われ、受け入れた時ですら……
そうだった。」
「……あの時ですら、気づいていなかったんだ。
僕は……自分の気持ちから逃げていた」
涙が頬を伝う。
「立場上、一緒にはなれない。
それを言い訳にして……
本当は……
彼女を失うのが怖かっただけなのに……」
サタンは静かに聞いていた。
「……あなた……私が……?」
デズモンドは目を閉じた。
(わかるさ。
僕は……
ずっと彼女を見てきたんだ)
(デアは……
そんなふうに笑わない。
そんなふうに首を傾げない。
そんなふうに……
僕の名前を呼ばない)
女性はゆっくりと微笑んだ。
その微笑みは、
デアのものではなかった。
(……そうか。
やはり……お前には隠せないのか)
柔らかさが消え、静かな威厳が宿る。
デズモンドは、静かに“理解”した。
「……そうか」
そして震える声で言った。
「……なら……
彼女に伝えてくれないか」
サタンは目を伏せた。
デズモンドは微笑んだ。
その微笑みは、どこか少年の頃のように優しかった。
「愛していたと。
ずっと……
彼女だけを。」
サタンは言えなかった。
――デアの記憶は、全部ある。
――デズモンドと過ごした日々も。
――あの日の温もりも。
――全部、覚えていることを。
デズモンドはゆっくりと背を向けた。
「……ありがとう」
サタンは静かに見送った。
その瞳には涙はなかった。
だが――
胸の奥で、
確かに“誰か”が泣いていた。
11.人ならざる者のほうが、人を知っていた
白銀歴29年1月1日(土)
ポップフェラー家邸宅跡地
ポップフェラー家が没落してから、まだ一年も経っていない。
サタンは、王都の外れにひっそりと残る“邸宅跡地”を訪れていた。
かつて豪奢を誇った屋敷は、
今は瓦礫と焦げ跡だけが残り、
庭園の噴水は干上がり、
風が吹くたびに灰が舞った。
(……ここで、デアは……)
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
その時だった。
「おや……お戻りになられたのですか、デア……
いえ、魔王サタン様」
瓦礫の影から、一人の老人が姿を現した。
黒い燕尾服。
白髪。
深々とした礼。
デアの記憶にある――ポップフェラー家の執事。
だが、サタンは会った瞬間に悟った。
(……違う。これは“人間”じゃない)
気配が濁っている。
人の形を模しているだけの、魔物。
サタンの視線を受け、老人は穏やかに微笑んだ。
「私は、ポップフェラー家が悪魔と契約した時、
その代償として生まれた“影”の一つにすぎません」
サタンの眉がわずかに動く。
老人は続けた。
「旦那様も、メディーナ奥様も、ヴァリオン坊ちゃまも……
皆、己の欲のために悪魔の力を使い、
己の欲のために滅びました」
「……あぁ」
「ですが――
この家が行ってきた“本当の罪”は、
まだ誰にも裁かれておりません」
老人は瓦礫の奥を指した。
そこには、地下へ続く崩れた階段があった。
「人身売買。
貧困層の子供を“素材”として扱い、悪魔の器にするための実験。
ムタトゥスが生み出す魔物《ノーバディ》の兵器化。
――ここにはもう残っておりません。
しかし、“ここにない”というだけで…… これらの闇が終わったわけではないのです」
サタンは黙って聞いていた。
老人は、まるで“遺言”のように静かに言った。
「サタン様。
あなたは“憤怒の闇極魔王:燻褪闇堕天極魔(サタン)”にも等しき力に目覚めておられながら、
誰よりも深い忍耐の心も併せ持っておられる。
人の心を失わずにいておられる。
だからこそ――
この国を変えられるとしたら、それは あなたしかいないのです」
サタンは目を細めた。
「……何が言いたい」
「何も。
ただ――
“見て”知っていただきたかったのです。
この国……いえ、人の社会そのものが
どれほど歪んでしまっているのかを」
風が吹き、老人の姿が揺らいだ。
次の瞬間、その身体は黒い霧となって崩れ、
跡形もなく消えた。
残されたのは、
瓦礫と灰と、
冷たい沈黙だけ。
サタンはしばらく動かなかった。
(……デア……
お前のような優しい者が……
喰らいつくされてなるものか)
(……デズモンド……
お前が守ろうとした世界は……
こんなにも壊れていたのか)
拳を握る。
静かに、
しかし確かに――
サタンの中で、とある“決意”が生まれた。
……デアが残した“最後の火”。
12.エリュシオンの白い庭
白銀歴29年 12月25日(日)
惑星アルビオン=ネブラス アルビオニア王国
王都の外れにある集合住宅
デアとの別れから二十五年。
サタンとの出会い・別れから二十三年。
四十七歳となったデズモンド・スペンサーは、
薄暗い自室の椅子に深く腰掛けていた。
眼帯。
手袋。
かつて黒曜騎士団を率いた男の面影は、静かな影となって揺れている。
呼吸は浅く、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
(……紫の悪魔の君……
あとは……任せて……いいかい?……)
目を閉じると、
デアをゲルマニアへ逃がしてからの日々が、
淡い残光のように脳裏をよぎった。
・王宮地下に拘束され、デアの居場所を吐けと拷問を受けたこと。
片目を奪われ、爪を剥がされ、睾丸を潰されても、口を割らなかったこと。
(彼女が捕まるくらいなら、私の身体などどうなってもよかった……)
・黒曜騎士団の仲間が命懸けで救い出してくれたこと。
(ガルム、レイナ……すまない。亡命の手助けまでしてくれたのに……)
・デアが“この世界から消えた”と悟った日のこと。
(紫のカケラ……あれが彼女の中にいたのなら……)
・ゲルマニア公国がサクラメント教を邪教指定し、弾圧していたと知った日のこと。
(デア……私のせいだ。私が無知でなければ……もっと想像力があれば)
・アルトリウス王、ユリウス第一王子との決裂。
黒曜騎士団の総指揮官として戦場に立ったこと。
(国を救いたい――心からそう思った。
でも……それ以上に“死ねる”と思った。
あの日、彼女を失った瞬間から、ずっと求めていた)
・戦火でエリュシオン植物園の建造が途中で打ち切られ、今も再開されていないこと。
・聖遺躯王室悪魔祓い師の犠牲によるムタトゥス封印を見届けたこと。
・スペンサー家が崩壊し、王権がレインフォード家へ移ったこと。
・ポップフェラー家が没落したこと。
・戦乱が終わり、アルビオニアに一時の平和が訪れた頃、
自分だけが急激に衰弱し始めたこと。
(……私の役目は終わった。
国も、彼女の足跡も守られた……もう、思い残すことは何もない……)
そこで、ふっと視界が白く滲んだ。
音も匂いも消え、
ただ柔らかな光だけが満ちている。
そこに――
彼女がいた。
あの日のままの姿で。白銀の光を受けて淡く輝くパーティドレスを纏い、 銀髪が光を受けて揺れている。
デズモンドは息を呑んだ。
「……なんだか……僕だけ……
オジサンになってしまって……恥ずかしいな……」
彼女は何も言わない。
ただ、そっと手を差し伸べていた。
あの日、エリュシオン植物園の話をした夜と同じ微笑みで。
デズモンドは手を伸ばした。触れられないと分かっていても。
白い光が二人を包み、世界が静かに溶けていく。
彼女の姿は、まるで光の中へ帰っていくように薄れていった。
――
視界が自室へ戻る。
天井の模様がぼやけ、呼吸は細く、胸は上下しない。
身体はもう動かない。
ただ――
右手だけが、幻の中と同じように…宙へ向かって伸びていた。
その指先の先には、小さな写真立て。
卒業式の日。
仲間たちに囲まれ、照れながら肩を寄せ合って写る、デアと自分の写真。
デズモンドの乾いた唇が震えた。
「……デア……
……エリュ……
…が…きたら……
二人で……」
その言葉を最後に、
デズモンド・スペンサーは静かに息を引き取った。
傷も病もない。
ただ――
心だけが、先に死んでしまっていた。
彼は生涯独身で、子を残さなかった。
後世の歴史書はこう記す。
“悪辣なスペンサー王家の中で、ただ一人、民に愛された者がいた。”
13.エピローグ ― 罪と赦しの1200年
白銀歴1204年。
アルビオニア王国の歴史が塗り替えられてから、
すでに千二百年弱が過ぎていた。
文明は変わり、
国境は変わり、
人々の価値観も変わった。
だが――
悪意だけは、何も変わらなかった。
13-1.総聖母昇天:Assumption of Saint-Grand-Mother
白銀歴1204年8月15日(金)
コムニア星州連邦 第五十衛星――サンクティア=レメディウム(Sanctia=Remedium)
白い大理石で統一された街並み。空へ向かって伸びる尖塔には、
サクラメント教団の紋章が金色に輝き、街路には“慈悲”を象徴する聖母像が等間隔に立ち並ぶ。
中央広場には巨大なホログラム広告が浮かび、
《救済の星へようこそ》
《すべての子どもに未来を》
《神の慈悲はあなたと共に》
と、柔らかな声で繰り返し流れていた。
観光客や寄付者が訪れる表通りは、
清潔で、整然としていて、
医療施設や孤児院が整然と並ぶ。
この“宇宙最大の慈善医療衛星”として知られる衛星に、
サクラメント教団 ― 神の慈悲の聖職者会(MOC)が管理する巨大建築物“テレサ・カリアンザ”があった。
外観は清潔で、
壁には聖母像が掲げられ、
一万人以上の子どもたちが暮らす巨大な“孤児院”。
だが――
その真下に広がる地下は、
地表の十倍以上の広さを持つ、無音の収容施設。
エレベーターが最下層に到達すると、
まず耳に届くのは“静寂”。
泣き声も、叫びも、呻きもない。
それらはすべて、吸音材で覆われた壁と天井に吸い込まれていた。
照明は青白く、昼夜の区別はない。
空気は乾燥し、薬品と鉄の匂いが混じっている。
そして世界中から誘拐された子どもーその数、約10万人。
それが、この地下に収容されている。
人種・年齢はバラバラ。
赤ん坊から十代半ばまで。
子どもの胸元には、数字とバーコード、そして“用途”が印字されている。
《器候補》
《臓器提供》
《労働力》
《愛玩用》
《研究対象》
《売却待ち》
その分類は、
人間ではなく“資源”として扱われている証だった。
通路を歩くのは、白い修道服を着た職員と、無表情の医療スタッフ。
彼らは子どもを見ることはない。
ただ、数値だけを見ている。
体温。
血圧。
心拍。
売却予定日。
市場価格。
そして――
この地下のどこにも、祈りの声はなかった。
地上で響く聖歌は、ここには届かない。
だが――
その“静寂”の真上では、
まったく別の音が響いていた。
子どもの名簿をめくる紙の音。
鍵束の金属音。
そして、取引のための低い声。
地下の無音とは対照的な、
“日常としての搾取”が行われている場所。
そこは、
テレサ・カリアンザの最上階――
総聖母ベリサの私室兼・取引室。
「次の子はどこだい?
金払いのいい客が待っているよ」
「はい、ベリサ様。すぐに準備いたします」
白い修道服を纏った女――
聖総母ベリサは慈悲深い微笑みを浮かべながら言った。
「神の御心に従いなさい。この子たちは“救われる”のです」
その声は甘く、しかし底知れぬ冷たさを孕んでいた。
その時、空気が変わった。
風が止まり、蝋燭の炎が揺れ、空気が震える。
ベリサが眉をひそめる。
「……誰じゃ?」
返事はなかった。
代わりに――黒い影が静かに降り立った。
その表情は、
氷のように冷たかった。
サタン。
ベリサは恭しく頭を下げた。
「……おや、デア様。お待ちしておりましたぞ。
世界有数の“慈善家”として名高いあなたが、
まさか我々に多額の“寄付”をしてくださるとは」
サタンは何も言わない。
ベリサは微笑みを深める。
「もちろん、寄付とは“子どもたちの未来のため”……
さて――
ここにいる子ども全員を“引き取りたい”とのことですが、
他のお客様もおりましてな。
運営上、全員というわけには……」
その瞬間、 サタンの瞳がわずかに細められた。 空気が重く沈み、蝋燭の炎が一斉に消える。
ベリサはその敵意を感じ取り、 唇の端を歪めて笑った。
「……ふふ、なるほど。 わらわを試すつもりかえ? ならば見せてやろう――“神の選定”を。」
白い修道服が裂け、 その下から、肉が膨張し始めた。 背骨が音を立てて伸び、 皮膚の下で何かが蠢く。
次の瞬間、 背中が破裂し、無数の腕が生えた。 それぞれの腕が異なる年齢の人間のもの―― 赤子の腕、少女の腕、老人の腕―― それらが蠢きながら、 祈るような形で空を掴もうとしていた。
「見よ……これが“慈悲”の形じゃ……!」
額から突き出した一本の角は、 ユニコーンのそれとは似ても似つかない。 白ではなく、腐った象牙色。 根元から血が滲み、 ねじれた螺旋の中に人間の歯が埋め込まれていた。
顔は半分だけ人間のまま、 もう半分は獣の骨格が露出し、 眼窩の奥で紫色の光が脈打つ。
ベリサの声は、 もはや人間のものではなかった。 祈りと悲鳴が混ざり合い、 その響きは“聖歌”のようでいて、 聞く者の心を腐らせる。
魔人ベリサ:潔選定一角婆婆眷魔(ユニコーン)形態
ベリサは自らを神に選ばれた存在と信じ、 その醜悪な姿を誇らしげに掲げた。
「どうじゃ……! これが“選ばれし者”の力よ! わらわは神に選ばれ――」
その言葉は、 最後まで続かなかった。
サタンが、 ただ 手を軽く横に払っただけ だった。
黒い閃光が走り、 ベリサの巨大な魔人の身体は 中心から静かに裂け、 背中の腕が一斉に千切れ、角が砕け、肉が液体のように崩れ落ち、床に触れる前に蒸発した。
悲鳴も、血も、灰すら残らない。
まるで、 最初から“存在していなかった”かのように。
サタンは微動だにせず侍女に言った。
「ここの”全て”を公にしろ。せねばお前の命はない。ベリサのせいだと言えば済む。」
――その数日後。
テレサ・カリアンザ孤児院の“実態”が、次々と明るみに出た。
総聖母ベリサは子どもの人身売買で、毎年サンクタ共和国に 約二百億ルナルナ円相当を送金していた。
赤ん坊一人につき 二十万ルナルナ円相当。
ベリサが死亡した時の口座には、数百億ルナルナ円規模 の資金が残っていた。
子どもたちはベッドに縛りつけられ、瀕死の者にも安価な鎮痛剤以外は与えられず、
皮下注射器は使い回され、排泄物の処理もまともに行われていなかった。
スタッフの多くは医療研修すら受けておらず、十年以上前の医薬品を投与し、汚れたタオルを食器と同じシンクで洗っていた――
その一方でベリサ自身は、
自家用宇宙船を乗り回し、
コムニア星州連邦の最先端医療に執着し、
常に高級医療施設に入院していた。
さらに、
ベリサはコムニア大統領府のある惑星リベルタスプライム首都「ワルモノンDC」にも
大統領婦人アンジェラ・ハリントンと共に孤児院を開いていたが、
数年前にひっそりと閉院していた。
13-2.人ではない者の最期
白銀歴1204年9月27日(土)
惑星リベルタス=プライム コムニア星州連邦首都 ワルモノンDC
連邦政府官邸 プライム・パラディウム
大統領ウィリアム・A・ハリントンとそのSP――
星州連邦最高戦力 #13 リベラルド・K・ネウロパストゥムの長期不在期間中――
大統領府の豪奢な寝室で、
愛人である大統領補佐官バルロ・R・ザコーネルと過ごしていた
アンジェラ大統領婦人は、鏡の前で怯えていた。
(ベリサが……消えた。私の“供給源”が。)
(テレサ・カリアンザの監視映像……あの女……まさかポップフェラー家の現当主!?)
(次は……私!?)
鏡の中の瞳は、もはや人間のものではなかった。
若さと美貌を維持するために子どもを喰らう魔人――
それがアンジェラの本性だった。
その瞬間、寝室の扉が静かに開きサタンが現れた。
アンジェラ「そんな……SPたちは何をしてるの!」
サタン「あの程度の護衛では、私の気配すら察知できない。」
「少し寝てもらったわ。数時間後には起きる。安心なさい。
それより――テレサ・カリアンザから出航したあなたの大型飛空艇の行方を教えてくれないかしら。」
アンジェラはゆっくりと笑った。
その笑みは、慈善家の仮面を完全に捨てた獣のそれだった。
「飛空艇……? あぁ、あそこに”積んだ”連中のこと?
ヤツらのような 卑しい壊れ物 はね、
私たち“選ばれた側”に 踏み躙られるためだけに存在してるの。」
「生かすも殺すも、値段次第。
泣こうが叫ぼうが、あれは“資源”よ。――人間なんかじゃない。」
「どうなったかなんて、一々 覚えていないわ。
今頃、食糧か、慰み物か、狩りの対象にでもなっているんじゃないかしら。」
その声には、慈悲も理性もなかった。
ただ、飢えた獣のような優越感だけがあった。
サタンの瞳がわずかに細められる。
胸の奥で、何かが 軋む音 を立てた。
――“お前は家のために存在するのよ、デア。”
――“感情などいらない。黙って従え。”
――“壊れたら、替えを用意するまでだ。”
――“安心しろよ。お前の価値なんて最初から“これ”だけだ。”
アンジェラの言葉と、
デアが家族から浴びせられた非道な言葉が重なった。
サタンには、アンジェラがとても哀れに見えた。
その瞬間、アンジェラの笑みが凍りつく。
次第にその顔は、サタンへの恐怖と憎しみで歪んでいく。
(美貌も、力も、資産も――
すべてで私を超える者が……くだらぬ正義感に酔い……私を断罪しようとでもいうの……?)
「……その目、やめて。
私を見下ろすな……!」
怒りと恐怖が混ざり、
アンジェラの身体が震え始めた。
皮膚の下で何かが蠢き、筋肉が膨張し、骨が軋む。
「私は……選ばれた者……!
この美貌も、この力も、神の恩寵なのよ!」
その叫びとともに、身体が裂けた。
背中から黒い煙が噴き出し、
肉が膨張し、腕が肥大化していく。
肩から腕へ、腕から脚へ――
皮膚が引き裂かれ、脂肪と筋肉が混ざり合い、
巨大な塊 へと変わっていった。
顔は崩れ、頬が垂れ下がり、唇が裂け、歯が獣のように伸びる。
胸は膨れ上がり、腹は垂れ下がり、脚は獣のように湾曲し、
足の指が地面を掴むように変形する。
魔人アンジェラ・C・ハリントン:凶暴残忍猛捕食眷魔(ヘルオルグ)形態
アンジェラの本性――
人間…とりわけ幼児を好んで喰らい、美貌を維持する怪物。
その姿は、かつての“社交界の女王”の面影を完全に失っていた。
「見よ……これが私の真の姿……!
神の力を宿した、美の極致……!」
サタンは静かに歩み寄った。
その瞳には怒りも憐れみもない。
ただ、デアの記憶が燃えていた。
白銀のドレス。
家族の冷たい視線。
「飾り」として立たされた少女。
アンジェラの声が、その記憶と重なる。
「壊れ物は、踏み躙られるために存在する――」
サタンの指先がわずかに動いた。
黒い閃光が走り、アンジェラの巨大な身体が 内側から崩壊した。
肉が泡立ち、骨が砕け、脂肪が蒸発し、皮膚が灰へと変わる。
その声は、悲鳴でも祈りでもなく、
ただ“空気が裂ける音”だった。
数秒後、そこには何も残っていなかった。
腰を抜かして尻もちをついたバルロが泣き叫ぶ。
「ひ、ひ、人殺しぃい……!」
サタンはゆっくりと首を傾けた。
「人殺し?」
デアがいなくなったあの日から、数え切れぬほど見てきた悪意。
- 飢えた民の食糧を奪い、自分の晩餐に並べる王
- 税を払えぬ者の娘を“担保”として連れ去る領主
- 災害で家を失った人々を、“労働力”として買い叩く企業国家
そして――
それらすべてを遥かに上回る、今回の筆舌に尽くしがたい人身売買。
弱き者が搾取され、消費される現実。
せめて――
デアやデズモンドのような人間に救いのある世界を。
紫の瞳が細められる。
「私は――」
静かに、しかし揺るぎなく。
「“人”を殺したことは一度もない。」
燻褪闇進天極記:サタンレコード (完)
←前の物語へ:
→次の物語へ:
「天ノ川あんぽん譚のあらすじ一覧」へ
「天ノ川あんぽん譚」トップページ へ
Copyright © しんじん-Hobby(2.0) All Rights Reserved.
本作品の無断転載・二次利用・AI学習を禁じます。
