本編 第一章 第二節前編『Battle of Besitiarium』

白銀歴1204年12月4日(木) 夕暮れ時

『明日の公務は獣と戯れるって仰ってましたよね? ヒノモトは寒いので、暖かそうで少し羨ましいです』

月京 竹娘(つきのみや たけのこ)は少し考えてから返信した。

「食い殺されないように気をつける笑
 年末年始の前に、またそっちに行けたら良いなぁ。」

すぐに既読がついた。

『縁起でもないこと言わないでください笑
 茶都芋(さといも)と冠鰤(かんぶり)を用意して待ってますね。』

「はーい」

竹娘は小さく笑った。

輝夜文化ホールで別れてから、王室支給の端末でも種男と連絡を取れるよう、ちゃっかり根回ししておいた。


我ながら、ひどい公私混同だと思う。

その成果を十分に堪能してから、竹娘は端末を閉じた。

「ま、その前に、今から誘拐されてくるんですけどね」

誰に聞かせるでもなくつぶやき、表情を戻す。これから始まる任務が、気持ちのいいものではないことくらい分かっていた。

王室に入って以来、こういう場所からはしばらく遠ざかっていた。人を人として扱わない連中のいる場所。

「……久しぶりだな、こんな世界」

竹娘は立ち上がった。
──────────────────────
 本編 第一章「昔醒の兆し編」
    第二節『Battle of Besitiarium』

──────────────────────

第一幕 生贄たち

第一項 ベスティアリウム

ベスティアリウム――
ルナルナ領内の少惑星《アドレナ》に存在する、
世界有数の化粧品企業「鳳栄(ほうえい)コスメティクス」を擁する「伏原(ふくはら)財団」の監事にして、
同社の実質的な経営実務を取り仕切る男――鷹栖太郎(たかはし たろう)の私邸。

表向きは化粧品業界の社交場。
しかし実態は、違法コピー品の生産工場であり、さらに裏では、生体兵器 “魔獣” の製造・売買が行われている。

敷地の地下には、古代帝国のコロッセオを模した巨大な闘技場がそびえ立つ。
そこでは各国から誘拐された “生贄” を魔獣と戦わせる興行が日常的に行われ、
観客席は場内から丸見え――
「勝者は存在しない」という絶対的な自信の象徴だった。

施設全体にはAI監視網、自律兵器、生体センサーが張り巡らされ、侵入者が生きて帰る可能性は限りなくゼロに近い。

――その地獄に、今まさに三人の生贄が連れ込まれようとしていた。

第二項 三人

白銀歴1204年12月5日(金) 深夜
ルナルナ領内 少惑星《アドレナ》
ベスティアリウム地下闘技場

地下闘技場に、司会者の甲高い声が響き渡った。
「皆さぁん、お待たせしました! 魔獣戦、今夜も開幕です!」

円形の観客席が、地鳴りのような歓声に包まれる。
彼らが待ち望んでいるのは、対等な勝負ではなかった。
追い詰められた人間が誰を頼り、誰を裏切り、いつ希望を捨てるのか。
その瞬間を安全な席から眺め、生存率や悲鳴の回数へ賭けることだった。

「それでは、本日の挑戦者にご入場いただきましょう!」

重い鉄扉が開いた。
英数字の印字された頭巾で顔を隠された三人が、武装した職員に連れられてくる。

それぞれの首には、銀色の金属製の輪がはめられていた。
呼吸、心拍数、声の震え。首輪に組み込まれた装置は、それらすべてを拾い上げ、場内のスピーカーと観客の端末へ送信している。

観客席の壁面に、三人の生体情報が表示された。

「心拍数が上がってるぞ!」
「今夜は誰が最初に泣くかな?」
「裏切り予測へ賭けた奴、もう投票したか?」

歓声の中で、三人は闘技場の中央へ立たされた。

頭巾一番は、ビキニカウガール。
頭巾三番は、胸元に白薔薇の紋章が入った喪装。
頭巾Ex版は、ジャケットとブーツを除いた未完成の近衛服。
さらに、手品師が使うような不気味な箱が台車に載せられて運ばれてきた。

その足元には、奪われた装備品が戦利品のように並べられている。
司会者が腕を振り上げた。

「それでは、挑戦者をご紹介しまぁす!」

最初の頭巾一番が外された。
現れたのは、ルーシア寒冷帝国で名を知られたグラビアアイドル、ブリコ・モニトゥだった。

「ルーシア国営番組『極寒水着ッ! СНЕГ♡GIRLS』で一躍有名となった、ブリコちゃんです!
 吹雪にも氷河にも耐えた彼女ですが、今夜の魔獣には耐えられるのでしょうか!」

観客席が沸き立った。
「うおおお!!」
「スライスした霜ブリ肉を存分にしゃぶしゃぶしたいねぇ(*´Д`)」

司会者は大げさに両腕を広げた。
「なんと!
 ブリコちゃんをここへ送るよう我々にコンタクトを取ってきたのは、芸能事務所に勤める実の姉!
 妹の美貌に嫉妬したのか、はたまた大金が欲しかっただけなのか……いやぁ、家族って怖いですねぇ」

ブリコの膝が崩れた。
「……嘘。お姉ちゃん……?」

彼女が積み上げてきた信頼は、闘技場の歓声によって踏みにじられた。
観客の端末へ、ブリコの心拍数が大きく表示される。
数字が跳ね上がるたび、歓声も大きくなった。

次の頭巾三番が外される。
白薔薇の紋章を胸に抱いた少女、ローズ・マリガンだった。

「続いては、アルビオニア国籍の大学生、ローズちゃんです!」

司会者は手元の資料を読み上げる。

「彼女は、舞台俳優リディア・マリガンさんの娘。
 そしてアルビオニア王室が長く隠してきた血筋の証人でもあります!」

観客席がざわめいた。
ローズの顔から血の気が引いていく。

「何を……言ってるの?」

「あなたの出生記録は、本来なら永久に封印されるはずでした♪

 そう、この子は――
 当時 五十六歳の王配アイアンヴェイル公爵と十九歳の舞台女優リディアさんとの間に生まれた、
 アルビオニア王室の忌子なのです♪

 そんな出自……“消しておきたい”と考える連中がいても、まったく不思議じゃありませんよねぇ♪

 それにしてもアイアンヴェイル公爵…熟れる前のフレッシュなリディアさんを存分に味わっていたようで…
 中々の好色家ですねぇ。」

ローズは首を横に振った。
「お母……さん?
 そんな……
 ……お父さんは死んだって……
 学生時代からの付き合いだった、って……

 そうだお母さん? お母さんはどこ?」

観客が嘲笑する。
「リディアはどうしたー!」
「俺、あいつのファンだったんだよ!」
「ママとムスメの親子丼セットで見たかったのになー。魔獣が ”料理” したがってるからよぉ♪」

司会者は肩をすくめた。
「あぁ、頭巾二番……じゃなくてリディアさんも一緒にお招きする予定でした。しかし、娘を逃がそうとして最後まで抵抗されましてね
 ああいうの、困るんですよねぇ。効率が悪くて。」

闘技場へ台車が運び込まれる。
箱の蓋が開く。
中に収められていたのは、ところどころに人であった名残を留めながらも、すでに元の輪郭を失った残骸だった。

「母親の愛って、ほんっと迷惑ですよねぇ。おかげで予定が狂ってしまいましたっ♪」

「い゛や゛ぁぁぁぁぁああ゛あ゛あ!! お母さん……っ!! お母さん!!」
ローズの絶叫が、首輪のマイクを通して場内に響き渡った。

その声さえ、首輪によって場内へ拡声された。

観客は笑った。
ある者は心拍数に賭け、ある者は崩れ落ちるまでの時間を記録し、ある者は人工知能へ学習させるための心理データとして保存していた。
恐怖も悲嘆も、ここでは数字だった。

「さあ、そして本日の特別挑戦者です!」

最後の頭巾Ex番が外された。

竹娘が顔を上げる。

「今年九月、彗星のように現れた―― ルナルナ王室所属の近衛騎士、月京竹娘ちゃんです!
 本日はブーツを剥ぎ取った状態で来ていただきました♪
 本イベントの出資者様より、どうしても裸足で戦うところを見たいというご要望をうけまして。

 さてさて、王室の近衛騎士如きが、魔獣相手に、どこまで民間人を守れるのでしょうか!?
 それとも、自分だけ生き残るために二人を見捨てるのでしょうか!」

歓声が爆発した。

「たけのこちゃん…ハァ。
 ブリコちゃん、ローズちゃんに比べて色気・愛嬌・可愛らしさ・華やかさ、それに乳も 全っ然 足りませんねぇ……
 まあ、鍛えているのか、スタイルだけは悪くないですが。
 最期にどんな声で鳴いてくれるのか、楽しみです。」

竹娘は黙っていた。
((# ゚Д゚)……ちょっと待って、なんで私だけ外見まで中傷されるの?
 …ブリコさんとローズさんが凄く可愛いのは…間違いないけど)

足元には、押収された王月武装《寝待太刀》のレプリカ、天ノ羽衣《天竹織羽》の模造品、そして偽装情報を詰め込んだ携帯端末が置かれている。

職員の一人が端末を拾い上げ、観客席へ掲げた。

「王室近衛の機密端末だ! 情報がぎっしり入ってるぞ!」
「あとでLPSDへ送って解析させろ!」

職員たちは、自分たちが貴重な情報を奪ったつもりでいた。
実際には、竹娘が意図的に持ち込んだ偽情報である。

接触先、資金経路、協力者一覧。

どれも精巧に作られた偽物だった。

餌は食いつかれた。
あとは、この闘技場そのものを内側から壊すだけである。
闘技場の最上部には、厚い防弾ガラスに囲まれたVIP監視室があった。

一人の男が、暗い室内から竹娘を見下ろしている。

「これが、あの王室の新しい駒か」

太郎の声は、司会者とは対照的に低く冷たい。

「どこまで私に利益をもたらしてくれるか、見せてもらおう」

司会者が手を叩いた。

「挑戦者の皆さんには、戦う順番を話し合って決めていただきます!」

観客席に笑いが広がる。
この時間を、彼らは好んでいた。

誰が最初に出るのか。
誰が他人を押しつけるのか。
誰が泣き、誰が怒り、誰が生き残るために仲間を見捨てるのか。

観客の端末には、三人の行動予測が表示されていた。

《最初に裏切る人物》
《最初に逃亡を試みる人物》
《最初に戦意を喪失する人物》

ブリコは震える手を握り締めた。
ローズは床へ座り込んだまま、母の壊れた端末を見つめている。

二人とも、戦える状態ではなかった。

司会者はさらに声を張り上げた。

「もちろん、武器もご用意しております!」

台車へ載せられた武器が運び込まれる。

錆びた短剣。
柄の折れた槍。
木の棒。
ひび割れた盾。
鎖の切れ端。
旗。
そして鍋の蓋。

最後の品だけ、用途が料理寄りだった。

「お好きなものをお選びください! ただし、どれを選んでも魔獣の皮膚へ傷をつけることはできません!」

観客席に笑いが起きる。武器を選ばせること自体が、希望を持たせてから潰すための演出だった。
ブリコは錆びた短剣を手に取った。刃先が震え、細かな音を立てている。
ローズは頭を抱えた。

「無理よ……どれを選んでも、殺されるだけ……」

司会者は二人の絶望を満足そうに眺めた。

「本番開始は十五分後です。それまでに、次回の参加者アンケートへご回答ください!」

観客席のあちこちで端末が光る。画面には、各国の少年少女の顔写真、年齢、経歴が並んでいた。

難易度。
捕獲報酬。
話題性。
予測生存時間。

最も多く票を集めた人物が、次に誘拐される。観客は品物を選ぶように画面をめくっていた。

「この候補は運動能力が高いな」
「家族関係が複雑な方が、心理戦は盛り上がる」
「投票した候補が選ばれれば、賭けの倍率が上がるぞ」

ブリコの短剣が、手から落ちた。ローズも顔を伏せる。

「助けて……」

かすかな声が、首輪によって闘技場全体へ流れた。

「誰か……助けて……」

観客は笑った。その声が届かないことを、彼らは知っていた。

竹娘が動いた。二人の間へ座り、震える手を一つずつ握った。

「ブリコさん。ローズさん」

二人が顔を上げる。竹娘は、自分の金属製の手枷を軽く鳴らした。

「……ねえ、二人とも。私、こう見えて“ちょっとだけ”強いんだよ。
 だから大丈夫。ここから先は、私に任せて。」

竹娘の声は静かだった。それでも、観客の嘲笑よりはるかに強く二人へ届いた。

「私、こういう悪趣味な場所を壊すの、得意なんだ」

ローズの指が、竹娘の手を握り返した。
ブリコも、落とした短剣から手を離し、竹娘へ視線を向ける。

「怖いよね。怖くていいよ。
 その代わり、ここから先は私の後ろにいて。あいつらが欲しがってる悲鳴も、攻撃も、全部こっちで引き受けるから」

絶望の底に、小さな光が灯った。頼りないほど小さく、それでも確かな光だった。

十五分が過ぎた。司会者が両腕を広げる。

「それでは、魔獣戦を開始します! 戦う順番は決まりましたかぁ?」

竹娘は立ち上がり、手を挙げた。

「はぁーい」

観客席の視線が集まる。

「先鋒も中堅も大将も、全部私がやりまーす」

歓声ではなく、怒号が飛んだ。

「調子に乗るな!」
「一人で勝てると思ってるのか!」
「二人を見捨てて、自分だけ目立つ気か!」
「泣き顔になるまで何分か賭けようぜ!」

竹娘は騒ぐ観客を見回した。
教師、研究者、芸術家、企業経営者、官僚。
普段は命や倫理について大層な御託を並べる者たちが、安全な客席から人間の絶望を楽しんでいる。
彼らは、自分たちが観察する側だと信じていた。

けれど、竹娘はすぐに気づいた。熱狂する者たちに紛れて、顔を強張らせ、今にも席を立ちたそうにしている者が何人もいる。
(コムニア大統領の息子さんまでいる。あー、なるほどね。観客じゃなくて、“共犯者にされた人”も混じってるんだ。)

竹娘は肩を軽く回した。一部観客の事情もだいたい見えた。なら、あとは自分の仕事をするだけだ。
――戦いを前に、竹娘は与えられた任務の説明を思い出していた。

第三項 二十五分の潜入作戦

「ラゴモルファ隊員二人との共同作戦、ですか?」

月京 竹娘が眉をひそめると、警務庁《赤イ兎》総司令の兎団 将萌は、机上の立体図を見つめたまま頷いた。

「正確には、すでに潜入している餅月 兎娘を含めて四人だ」

いつもどおりの冷静な声だった。
ただし月京 竹娘には、その奥へわずかな緊張が混じっているように聞こえた。
気のせいかもしれない。兎団 将萌は緊張していても顔へ出す人物ではなかったし、そもそも普段から少し怖い。

兎団 将萌が端末を操作すると、ベスティアリウムの立体図に複数の光点が現れた。

「王室が拘束しているウラガネビトを利用し、ベスティアリウム側へお前の捕獲を持ちかけさせる」

そのうち一つが、施設の中央へ移動する。

「お前は罠だと承知したうえで捕まり、内部へ入る。つまり、誘拐される囮だ」

ずいぶん堂々とした誘拐だった。

「王月武装《寝待太刀》、天ノ羽衣《天竹織羽》、携帯端末については、奪われることを前提に複製品を用意した。本物は部屋へ置いていけ」

月京 竹娘は立体図と兎団 将萌を見比べた。

「つまり私は、丸腰で地下闘技場へ放り込まれて、魔獣を相手に時間を稼ぐわけですね。ずいぶんと派手ですな」

顎へ手を添え、もう一度立体図を見る。

「そして、かなり悪趣味です」
「否定はしない。目標は試合開始から二十五分だ」

月京 竹娘の眉がもう一段上がった。

「二十五分も?」
「最初の二十五分で、餅月 兎娘が観客向け投票システムへ侵入し、観客情報と取引記録を回収する」

立体図の上層に、新たな光点が浮かんだ。

「作業完了後、ラゴモルファ隊員二名が鷹栖 太郎と司会者を捕縛する。五分以内に闘技場でお前と合流しろ」

兎団 将萌が端末へ触れると、今度は施設東側から複数の光点が進入を始めた。

「その後、ルナルナ公共安全総局(LunaLuna Public Safety Directorate)、通称LPSDの機動隊が施設へ突入する」

正面入口、搬入口、医療区画付近へ、それぞれ異なる色の光点が広がっていく。

「施設の制圧、職員と警備兵の拘束、収容区画に残された被害者の救出はLPSDの担当だ。医療区画に隣接する幼児収容区画には、救急部門を伴う別働隊が向かう」

月京 竹娘は立体図へ視線を落とした。
成人用の収容区画から少し離れた場所に、小さな区画が表示されている。

「……子どもまでいるんですか」
「人数も健康状態も分からない」

兎団 将萌の声は変わらなかった。

「私は闘技場にいるから無理だとして、ラゴモルファ隊員二名は、収容区画へ向かわないのですか?」
「そうだ」

兎団 将萌は即答した。

「収容人数も、必要となる医療処置も分からない。少人数で踏み込めば、かえって救出を遅らせる。お前たちは闘技場の二人を保護し、首謀者を確保して離脱しろ」
「LPSDを信用する、と?」
「全員、特に上層部は信用していない。だが、突入する全員が敵とも限らない」

兎団 将萌は、幼児収容区画を示す光点へ指を置いた。

「だから役割を分ける。私たちは、消される前に証拠を押さえる。LPSDには、今助けなければ死ぬ人間を助けてもらう」

月京 竹娘は、小さな区画を示す光点を見つめた。

「全員が、それぞれ別の人を助けに行けば、持ち場が崩れるということですか」
「そうだ。助けないと言っているんじゃない」

兎団 将萌は立体図上の任務範囲を二つに分けた。
王室側は、闘技場、情報中枢、VIP監視室。
LPSD側は、職員区画、医療区画、収容区画。

「助けるために、分担する」

月京 竹娘は、幼児収容区画からようやく視線を外した。
竹娘たちの役割は、闘技場の救出対象と確保した二名を連れ、施設の制圧が完了する前に脱出することだった。
進路を妨げる武装勢力については、撃破することで合意している。

「観客はどうするんです?」
「逃がす」

予想外の答えに、月京 竹娘は兎団 将萌へ目を向けた。

「泳がせる、と言った方が正確だな。観客の背後にいる各国各界のウラガネを炙り出すためだ」

つまり、目の前の犯罪者を全員捕まえて終わりではない。
逃げた者が誰へ連絡し、誰に助けを求め、どの資金経路を使うのか。その先まで追うための作戦だった。

月京 竹娘は腕を組み、困ったように笑った。

「誘拐されて、丸腰で魔獣と戦って、二十五分間お客様を楽しませろ、と」
「簡潔に言えば、そうなる」
「ずいぶん簡単に言ってくれますね」

「その嬢ちゃんの言うとおりだぜ」
背後から陽気な声が飛んできた。

振り返ると、巨漢の男がスクワットを繰り返している。ラゴモルファ隊員のフレミッシュ・ド・クイラだった。

「LPSDが来るまでの三十分で、潜入、情報回収、要人捕縛、救出、脱出だろ? 相変わらず無茶を言うよなあ」

口では文句を言っているが、身体は入念に温めている。断るつもりは初めからないらしい。

その隣では、ふくよかな女性がマスケット銃を指先で回していた。
同じくラゴモルファ隊員のセレグレアである。

「よろしくな、近衛の嬢ちゃん」

セレグレアは銃を肩へ担ぎ、月京 竹娘を上から下まで眺めた。

「もう少し私の見栄えがよければ、囮役を代わってやったんだけどな」

「姉御ぉ。自分で言って悲しくなんねぇの?」

クイラの問いに、セレグレアの銃口が無言で向いた。

「すんませんした」

謝罪までが早かった。
兎団 将萌は二人のやり取りを無視し、月京 竹娘へ視線を戻した。

「お前なら、投入される魔獣を倒すこと自体は難しくないだろう。問題は、早く倒しすぎないことだ」
「さすが総司令、的確な心配でございます」
「観客へ勝てると思わせるな。恐怖と希望を交互に見せ、試合を長引かせろ。餅月 兎娘の情報収集が完了するまで、二十五分は絶対に稼げ」

観客の嗜虐心を刺激しろ、と兎団 将萌は淡々と言った。

月京 竹娘は小さく息を吐いた。
普段なら演技を楽しむ余裕もあったかもしれない。
だが今回は、実際に誘拐された人々がいる。
月京 竹娘が予定どおり時間を稼げなければ、闘技場の二人だけではない。収容区画に囚われた人々の命も、施設に蓄積された証拠も失われかねなかった。

「了解。二十五分間、負けそうで負けない近衛騎士を演じます」
「倒されるなよ」
「ご注文承りました」
「生還が最低条件だ」

兎団 将萌は施設の立体図を拡大した。

「餅月 兎娘から送られた情報だ。特に通路、監視設備、非常用の脱出経路は頭へ叩き込んでおけ」

月京 竹娘は表示された経路へ目を走らせた。
一つだけ、確認しておくべきことがある。

「餅月 兎娘さんの外見的な特徴を教えてください。私は面識がありませんし、王室の公式記録にすら情報がありません」

兎団 将萌の指が、一瞬だけ止まった。

「この任務が終われば、お前と同様に名家の末裔として扱われる予定だ」

何やら含みのある答えだった。

「金髪、桃色の瞳、小柄な女だ。それで見分けられる」

その特徴に、月京 竹娘の胸がかすかにざわついた。
記憶の中の友人が、一瞬だけ脳裏をよぎる。胸の奥に残る古い痛みまで、呼び起こされたような気がした。

今は任務へ集中すべきだった。

月京 竹娘は立体図を最後まで確認し、深く息を吸った。
囮になる。
捕まり、武器を奪われ、恐怖に震えるふりをしながら、二十五分間戦い続ける。
その間に仲間が証拠を集め、首謀者を確保する。

LPSDは施設を制圧し、収容された人々を救出する。

簡単ではない。
だからこそ、自分が選ばれたと思うことにする。

「了解しました」

月京 竹娘は背筋を伸ばし、兎団 将萌へ敬礼した。

「それでは、魑魅魍魎どもの群れへ飛び込んでまいります」

「遊びに行くような言い方をするな」
「緊張をほぐしてるんですよ」
「そんなタマではないと思っていたが?」
「総司令のです」

兎団 将萌は答えなかった。
少なくとも、否定もしなかった。

月京 竹娘は口元へ小さな笑みを残したまま、もう一度、地下闘技場の立体図を見つめた。
闘技場に二人。
その外にも、助けを待つ人々がいる。

二十五分。

その時間を、誰一人失わずに稼いでみせる。
冗談めいた表情の奥で、月京 竹娘はそう決めていた。

第二幕 Battle of Besitiarium

第一項 ブタニク戦

闘技場の照明が落ちた。
低い電子音とともに巨大スクリーンが点灯し、黒い背景へ白い文字が浮かび上がる。

— B E S T I A R I U M B I O – W E A P O N S —

画面が切り替わり、豚魔獣のシルエットが浮かび上がる。 背後には軍事施設のような無機質な壁。

【SPEC】
・分類:生体兵器(近接破壊型)
・耐久:A
・攻撃性:A+
・制御難度:B
・推奨用途:反乱鎮圧/戦場掃討/強姦ショー
映像は、豚魔獣が檻を破壊するスローモーションへ。 観客席から歓声が上がる。

司会者の声は明るかった。
「高い攻撃性と、戦車砲にも耐える頑丈さ! ベスティアリウムが誇る大人気バトルアクターです!

 何度も通ってくださっているお客様にはもうお分かりでしょうが、人気の真因は別にございます。

 ズバリっ!老若男女問わずぅ、
 獲物たちの身体を凌辱し・血肉と臓物を喰らい散らかし・引き裂くのが画面映えするからに他なりません!!!

 本日は特別に、最新ロットの個体をお披露目しまぁす!」

映像は商品の宣伝画面へ切り替わった。

 【PURCHASE INFO】同型個体、好評販売中
★同型個体の購入はこちら! アクセスコード:PORK-AX77 価格:応相談(軍事利用ライセンス込み)
※在庫に限りがあります
※生体兵器のため返品不可
※個体差があります

観客たちは、今から人間へ襲いかかる怪物ではなく、品評会へ出された重機でも眺めるように画面を見ていた。

「今日の個体、買えるのか」
「前のロットより動きが良さそうだな」
「領地の警備用に一頭欲しい。餌は抱き飽きた奴隷で良いな」

竹娘は手枷をはめられたまま、巨大スクリーンを見上げた。
兵器の販売と公開処刑と通販番組が、盛大に悪手で混ざり合っている。

少なくとも、健全な商取引ではなかった。
画面が赤く染まる。
会場の奥で、巨大な鉄扉がゆっくりと開いた。


「それでは、本日のバトルアクターにご登場いただきましょう!」

照明が赤く染まり、 巨大な影が通路の奥から現れる。

「大人気の豚魔獣、ブタニクくんです!美少女の生贄達を前に大興奮しております!」

重い足音が、闘技場の床を揺らした。
暗い通路の奥から、豚に似た巨大な魔獣が姿を現す。
盛り上がった筋肉。傷だらけの灰色の皮膚。鉄板を継ぎ合わせたような頭部装甲。

口元と股間から滴り落ちる粘液が、床へ落ちるたびに白い煙を上げていた。

観客から、親しげな声援が飛ぶ。

「ブーちゃん、頑張れ!」
「今日は長く遊べよ!」
「前回のピストン運動後の“アレ”はやりすぎだったけどな!」

竹娘は、少し離れた場所にいるブリコとローズへ目を向けた。
二人とも壁際で身を寄せ合い、魔獣を見上げ震えている。
恐怖を隠す余裕すらない。この二人を巻き込ませるわけにはいかなかった。

司会者は竹娘たちを順番に指し示した。

「さあ、ブタニクくん! 一人目は、脂身の少なめ、肉が硬そうな頼りない近衛騎士です!」

竹娘の眉が動いた。

「硬そう?」

「ですが、その後ろには、もっと手頃で、もーっと可愛いピチピチぷりんぷりんな挑戦者二人が控えています! まずは一人目を軽く片づけちゃいましょう♪」

「頼りない?」

竹娘は思わず聞き返した。
観客席の一角から笑い声が上がる。

「怒るところ、そこなのか?」
「弱そうって言われたのが気に障ったらしいぞ」
「いや、下から一番可愛いって遠回しに言われたのにキレてるんじゃね?」
「往生際が悪いな!」

竹娘は自分の腕へ目を落とした。
たしかに、筋肉をむやみに大きくする鍛え方はしていない。
だからといって、非力扱いされるのは心外だった。

「細見えしちゃうのと、弱いことは別なんですけど」

司会者は竹娘の抗議を、格好の余興として拾った。

「おおっと! 月京竹娘ちゃん、まさかの“肉質評価”にブチギレだぁ〜!」

会話が微妙に成立していない。竹娘は訂正を諦めた。

その間にもブタニクは鼻を鳴らし、三人の周囲を値踏みするように歩いている。
巨体を揺らしながら、よだれを垂らし、 竹娘を舐め回すように見つめる。

「小さい。軽そう。すぐ壊れそうだぶぅ。
 脂は乗ってなさそうだけど美味しそうだぽー…… 霜降りのメスは食い飽きたとこだったから
 たまには赤身肉も良いもんだぽぽぽ……」

声まで出るらしい。
見た目どおり、知性の高さには期待できそうになかった。
竹娘は魔獣を見上げた。

近づくほど、すさまじい臭気が鼻を突く。
腐った脂と薬品と、長年洗浄を怠ったイカ焼き用鉄板を一つにまとめたような臭いだった。
最初の敵としては、強さより臭いの方が問題だった。

(く……臭っ。 豚なのにイカ臭っ……。)

小さく漏らした声は、首輪のマイクに拾われなかった。
二十五分を稼がなくてはならない。

竹娘の役目は、苦戦しているように見せながら興行を長引かせることだ。

一撃で倒してはいけない。
三撃でも、おそらく早すぎる。

まずは逃げる。適度に追いつめられる。危険な場面を作る。
最後に、偶然勝ったように見せる。

頭の中で芝居の流れを組み立てる。

巨大な身体が突進する。
トレーナーが慌てて制御装置を操作した。

「待て! まだ近衛騎士の手枷も外していない、武器も渡してな――」

制止は間に合わなかった。
竹娘はその場から消えた。

観客から見れば、そうとしか思えなかった。
実際には、突進の直前に身体を沈め、ブタニクの視界から外れる角度へ踏み込んだだけである。

次の瞬間、竹娘は巨体の背後へ回っていた。

しまった。

そう思った時には、身体が動いていた。跳躍とブタニクの背後に回る回転、そして――

ドグチャッ!!!
竹娘の脚から放たれた延髄斬りが、ブタニクの首と頭部装甲の境目へ突き刺さった。
「フゴォオッ!」
ブタニクの叫びをかき消す程の重い衝撃音が、闘技場全体を揺らす。
その巨体が前方へ傾き、そのまま顔面から床へ激突した。

砂煙が舞い上がる。会場を埋めていた歓声が、一瞬で消えた。
ブタニクは二度ほど手足を動かしたと思えば、激しく痙攣を起こした。

ブリュ! ブチュ!! ブリュリュリュ!!! ボジョレヌヴォヴォオオ…

そして糞尿を垂れ流し、やがて、その巨体は完全に沈黙した。

竹娘は着地し、砂埃を払った。
観客席は静まり返っている。司会者も口を開けたまま、何も言えずにいた。

「……終わった?」

観客の一人が、恐る恐るつぶやいた。

別の観客が端末を確認する。

「ブタニクの生命反応が…消えた…?」
「一撃で?」
「近衛騎士って、こんなに強いのか?」

竹娘は倒れたブタニクを見下ろした。
攻撃されれば反撃する。背後に守るべき二人がいるなら、なおさらである。

それ自体は間違っていない。

問題は、作戦開始からまだ四分しか経過していないことだった。
予定では、あと二十一分も残っている。

竹娘は頭を抱えたくなった。
一撃で倒すなと言われていたのに。

ほんの少し反射的に動いただけで、この有様である。

「お生憎さま」

竹娘は動揺を隠し、倒れた魔獣へ静かに言った。

「あなたのウンコになるつもり、ないの。」

見栄えだけは整えた。
内心は、まったく整っていなかった。
まずい。
早く倒しすぎた。
まさか、一体しか用意していないということはないだろう。

できれば次は、もう少し頑丈であってほしい。

司会者はその耳元で、通信機が激しく震えた。VIP監視室から、鷹栖太郎の怒声が漏れている。

(クソ野郎! どなってんじゃねぇわよ! このドぐされ畜生がっ!)
司会者は肩を跳ねさせ、慌てて笑顔を作った。

「さ、さあ! とんでもない番狂わせです! まさか、王室近衛がここまで強いとはぁ!」

声が裏返っていた。先ほどまでの余裕は、ブタニクと一緒に床へ沈んでいる。

「しかし、これで終わりではありません! 次は、軍事作戦にも投入された強力な個体をご用意いたします!」

観客席が再び沸き立つ。

「やっと本番か!」
「もっと強いのを出せ!」
「次は一撃で倒されるなよ!」

この者たちは、竹娘たちが生き残ったことを喜んでいるのではない。
もっと長く苦しむところを見たいだけだった。
諦めが悪い。
人の死を期待する者としては、熱意がありすぎる。

その喧騒の中で、ブリコが立ち上がった。
まだ震えの残る拳を懸命に構え、「シュッ、シュッ」と竹娘に合わせるようにジャブを繰り出す。

「すごいよ、竹娘ちゃん! そのまま全部、やっつけちゃえ!」

目には涙が残っている。それでも、声から怯えは消え、その表情には確かな希望が戻っていた。

ローズは倒れた豚魔獣と竹娘を交互に見つめ、呆然としている。

「今の……人間にできる動きなの?」

竹娘は二人へ振り返った。
少なくとも、怯えきっていた二人に少しは希望を見せられた。
時間配分には失敗したが、すべてが失敗だったわけではない。

竹娘は、心配はいらないと伝えるように小さく笑った。

観客席から、苛立った怒号が飛んでくる。

「生贄同士で喜んでるんじゃねえ!」
「次こそ叩き潰せ!」
「もっと派手なのを出せ!」

竹娘は観客席を見上げた。
分かった。
この者たちは、竹娘たちが死ぬまで興行を終わらせるつもりがない。

ならば、まだ時間を稼ぐ機会はある。
むしろ問題は、次も反射的に一撃で倒してしまわないことだった。

竹娘は軽く肩を回した。
次こそは、もう少し苦戦しているように見せよう。

たぶん。

演技力が戦闘力に追いつけば、何とかなる。

試合開始から四分。
必要時間まで、残り二十一分。

第二項 テレサロイド戦

闘技場の照明が、再び落ちた。
暗闇の中で巨大スクリーンだけが点灯し、ノイズ混じりの電子音とともに白い文字が浮かび上がる。

《テレサロイド・シリーズ》
B E S T I A R I U M B I O – W E A P O N S

続いて、製品仕様が表示された。

・ベース:故カンフー俳優「オシボ・リー」のクローン
・融合体:昆虫魔獣(カマキリ種)
・装甲:黒色ラバー拘束スーツ
★商品名:テレサロイド
★バトルアクター名:カマキリ人間

オシボ・リー。

竹娘も幼い頃、彼の主演映画を何本か観ていた。
鋭い蹴りと、無駄のない身のこなし。戦う姿も格好よかったが、竹娘が好きだったのは、戦いの後に困ったように笑う表情だった。

その人物の複製体へ魔獣を融合させ、兵器として売り出す。
趣味が悪い。
本当に、どこまでも趣味が悪かった。

画面が切り替わり、過去の作戦映像が流れ始めた。

夜の邸宅へ忍び込む視界。
警備網をすり抜ける影。
駆けつけた護衛。
途切れる通信。

最後に、標的となった防衛大臣一家の死亡記録が表示された。
司会者は、通販番組の実演映像でも紹介するような明るさで話している。

「こちらは、某国の防衛大臣一家を対象に行われた作戦記録です! 高い潜入能力と、確実な任務遂行性能をご覧ください!」

観客席から歓声が上がった。

「本当にこいつだったのか!」
「あの事件、事故扱いだったよな?」
「不法移民排除法を提案したクソ大臣だろ?」
「五体まとめて買えるなら安いんじゃないか?」

犯罪の証拠を隠すどころか、販売実績として上映している。

ウラガネビトは、自分たちが法や国家より上や外にいることを誇示したがる。
聞いてはいたが、ここまで露骨とは思わなかった。

スクリーンへ、購入案内が表示された。

同型個体、受注受付中
アクセスコード:MANT-TR42
販売単位:五体一組
標準納期:二か月
返品不可・保証期間内の整備費半額

返品不可。
竹娘は、その一文だけ妙に現実的だと思った。
殺人兵器へ返品制度があっても困るが、保証期間だけはしっかり設けてあるらしい。

観客たちは端末を取り出し、本気で購入を検討し始めていた。
自分たちがいつか依頼主にとっての「不要な証人」になり、同じ兵器を差し向けられる可能性までは考えていない。

人間、自分だけは使い捨てられないと思い込めるうちは幸せである。

画面が赤く染まった。
重い扉が開き、細身の男が闘技場へ歩み出る。

遠目には、人間にしか見えなかった。
だが男が足を止めた瞬間、背中が不自然に盛り上がった。

皮膚と戦闘服の隙間を押し広げ、二対の昆虫腕が現れる。鎌状の前脚が照明を反射し、ぎちぎちと硬い音を立てた。

「人間社会へ潜伏可能な知能と擬態能力! ブタニク君ほどの愛嬌はありませんが、その分、仕事は確実です!」

愛嬌。
先ほどの豚魔獣に、そのようなものがあっただろうか。
竹娘が真剣に疑問を抱いているうちに、カマキリ人間が咆哮した。

竹娘は慌てて表情を切り替えた。肩をすくめ、目を見開き、唇を震わせる。
おびえた少女の出来上がりである。

観客席が沸いた。

「そうだ、その顔だ!」
「今度は余裕ぶるなよ!」
「逃げ回れ! 長く楽しませろ!」

反応は上々だった。
宇宙海賊として偽名と身分を使い分けてきた経験が、こんな形で役立つとは思わなかった。
少しだけ悲しい経歴の活用方法である。

カマキリ人間が踏み込んだ。
鎌状の腕が、竹娘の首元を横切る。

竹娘は半歩だけ退き、紙一重でかわした。

「あっ……!」

短く悲鳴を上げ、よろめいてみせる。
本当は、何歩分でも余裕があった。
追撃の前蹴りが迫る。

避けることもできたが、竹娘はあえて腹部で受けた。衝撃へ合わせて後方へ跳び、派手に地面を転がる。
砂埃が舞い上がった。

「ぐっ……!」

咳き込みながら膝をつく。
手枷が床へ当たり、乾いた音を立てた。
観客席は大喜びである。演技としては成功していた。

問題は、これをあと十四分も続けなければならないことだった。

長い。

一体目を一撃で倒した代償が、地味に重かった。
カマキリ人間が跳躍する。

頭上から二本の鎌が振り下ろされた。竹娘は悲鳴を上げ、両手を前へ差し出す。

刃が閃いた。

木製の手枷だけが、きれいに切断される。
断面を見た竹娘は、心の中で小さく頷いた。

完璧だった。

これほど映像映えする手枷解放は、狙ってもなかなか撮れない。
あとは偶然の反撃を装えばよい。

竹娘は床へ手をつき、立ち上がろうとしてふらついてみせた。
カマキリ人間が好機と判断し、正面から突進してくる。

狙いどおりだった。
竹娘はぎりぎりまで引きつけ、振り下ろされた昆虫腕を両手でつかんだ。
指先へ、ほんの少し力を込める。

硬い音が鳴った。
腕の関節が逆方向へ折れ曲がる。
竹娘はそのまま巨体の勢いを利用し、折れた鎌を胸部装甲の継ぎ目へ押し込んだ。

刃が深く突き刺さる。カマキリ人間の動きが止まった。

竹娘は慌てて両手を離し、後ろへ下がる。

「危なかった……」

額へ手を当て、息を整えるふりをした。我ながら、なかなかの接戦だった。
カマキリ人間は数歩よろめき、膝から崩れ落ちた。砂煙が舞い上がり、その身体が動かなくなる。

司会者の声が裏返った。

「カ、カマキリ人間、戦闘不能! 王室近衛が、またも生き残りました!」

竹娘は呼吸を整えながら、闘技場の時計を確認した。

残り十二分。

一体目よりは、ずっと長く稼げた。

この調子なら、任務完了まで持たせられるかもしれない。

問題は、次の魔獣に対して演技を少しずつ変える必要があることだった。
同じ転び方を繰り返せば、いくら悪趣味な観客でも八百長へ気づく。
女優という仕事は、思っていたより難しい。

「ぃやったぁああ! 竹娘ちゃん、最っ高ぉおお!」

壁際で、ブリコが飛び上がっていた。
一戦目より声が大きい。
目元にはまだ涙の跡が残っていたが、今は怯えた顔ではなく、興奮した笑顔を浮かべている。

ローズも胸元へ手を当て、竹娘を見つめていた。

「本当に……勝ってる……」

震えはまだ消えていない。
それでも、乱れていた呼吸は少しずつ落ち着いていた。

竹娘が前に立っている限り、敵は自分たちまで届かない。
二人の目には、そんな信頼が生まれ始めていた。

竹娘は、安心させるように軽く手を振った。

時間を稼ぐことも大切だ。
けれど、二人が生きて帰れると信じられるようになったのなら、この戦いにも意味はある。

観客席では、それを面白く思わない者たちが騒ぎ始めていた。

「あの近衛を早く倒せ!」
「わざと長引かせろ!」
「希望を持たせてから壊した方が盛り上がる!」

やがて最前列にいたヴィオレッタ・ド・ラクロワが立ち上がった。
世界的な高級化粧品企業《エテルネル社》の筆頭株主として知られる老婦人だった。

「何をしているの! あの生意気な顔を早く恐怖に変えなさい!
 動きを封じて、ゆっくり、ゆっくり壊していくのよ!!!」

観客たちも同調する。竹娘は、怒号を浴びながら老婆を見上げた。

この人たちは、本当に怖い。
自分の手を汚さず、安全な席から他人が壊れることを求めている。
それでも、自分が追われる側へ回る可能性だけは想像しない。

竹娘は静かに息を吐いた。

あと十二分。

もう少しだけ、彼らが支配しているつもりの舞台で踊ってやればよい。
その後は、舞台ごと壊す。

試合開始から十六分。

地下のどこかでは、兎娘が観客情報を吸い上げ続けている。
竹娘は次の扉を見据え、再び恐怖に震える少女の表情を作った。

少しだけ、演技が楽しくなってきた自分には気づかないことにした。

第三項 クモ女戦

闘技場の照明が落ちた。
先ほどまで飛び交っていた怒号も、暗闇の中では一瞬だけ静まる。

やがて巨大スクリーンが点灯した。

— B E S T I A R I U M S P E C I A L U N I T —

白い文字の下に、黒い蜘蛛を思わせる紋章が浮かび上がる。
司会者の声は、相変わらず場違いなほど明るかった。

「さあ、お待たせしました! 本日の第三戦は、これまでの二体とは少々趣向が異なります!
 今日は食品スーパー勤務の一般人女性、水濃 佳澄(みずの かすみ)さんにお越しいただきまぁす!」

観客席に広がったのは、歓声ではなく困惑だった。誰もが互いの顔を見合わせ、司会者の言葉の意味を測りかねている。

「お越しいただくって……普通の人間か?」
「少々趣向が違うって、あのバケモノ女にそのままぶつける…訳じゃないよな?」

竹娘はスクリーンを見上げる。

「まさかぁ! すでに素敵な兵器に仕上がっておりますので、まずは完成までの映像をお愉しみください!
 本当はここで実演したかったのですが、まだ成功率が安定しておりませんので。
 ご好評なら、量産・商品化も検討いたします♪」

画面が切り替わった。
映し出されたのは、拘束台へ運ばれる一人の女性。
映像の中で、その女性は涙を流し必死に身をよじっていた。

「子どもだけは……お願い、あの子だけは見逃して…ください…お願いします」

白衣を着た者たちは答えない。
身体を固定し、計器や人体改造器具を接続し、数値を確認する。
人を扱っているというより、工場で製品を組み立てているような手際だった。

麻酔すら与えられないまま、巨大な手術刃が下腹部へ強く押し当てられ、そのまま縦に走った。

「あ゛っ……」

そこで女性の声は途切れた。それでも、作業の手は止まらない。
開かれた術野から内部組織が淡々と摘出され、代わって、特定悪魔のカケラから作られた《艶糸織巣魔導子宮(アラクネ・ネスト)》が体内へ埋め込まれていく。

やがて切開部から黒い糸状組織が体内外に伸び始め、全身を覆いながら、人間だった輪郭を異形のものへと作り替えていった。
竹娘は黙って見つめ続けた。その凄惨さ以上に、一人の人間が意思も尊厳もない部品として扱われていることが、胸に重くのしかかった。

観客席から感嘆の声が漏れた。

「生きたまま作るのか」
「腹を搔っ捌かれた時の表情、たまんねぇなぁ」
「元の子宮も残してるっぽいな、仕組みを知りたい」
「意識は残るのか?」
「残った方が興行には使えるだろ」

笑い声まで混じった。

竹娘は黙ってスクリーンを見ていた。

司会者が楽しげに映像を実況する。

「いやあ、興味深いでしょう? この方、お子さんを逃がそうと、自分から囮になったそうですよ!」

司会者は、冗談の落ちを焦らすように間を置いた。

「ところが、お子さんも無事に捕獲済みっ! 努力はすべて水の泡です! 自分まで捕まってしまっては、何にもならないでしょうにねぇ!」

笑いが起きた。

「先ほどのリディアさんも同じですが、親というものは時として合理的判断を失うようです。家族愛というものも、度を越せばずいぶん非効率ですねぇ!」

その言葉で、竹娘の中に古い記憶がよみがえった。
惑星トト。
避難船の床。
血の匂い。
ようやく脱出できたと思った時には、二度と目覚めなかった父。
守ろうとしただけだった。

ただ、自分の子どもを生かそうとしただけだった。

それを、この男は笑っている。

竹娘は静かに息を吐いた。
先ほどまで肩を上下させていた呼吸が、止まる。
青ざめていた顔も、震わせていた指も、元へ戻った。

二十五分を稼ぐために演じていた「追いつめられた少女」が、そこから消えた。

観客の何人かが、先に気づいた。

「……あれ?」
「さっきまで疲れてなかったか?」
「何か、雰囲気変わったぞ」

竹娘は返事をしない。怒鳴る気にもならなかった。
言い返す言葉なら、いくらでも浮かぶ。けれど、どれも必要とは思えなかった。

重い鉄扉が開いた。暗い通路の奥から、何かが這い出してくる。
巨大スクリーンに商品仕様が表示された。

・ベース:成人女性
・改造素材:《艶糸織巣魔導子宮(アラクネ・ネスト)》 ※絡命艶糸織蜘蛛総魔(アラクネ:悪魔総裁級)のカケラより生成
★商品名:未定
★バトルアクター名:クモ女

人間の面影を残した上半身。そこから下は、巨大な蜘蛛の身体へ変わっていた。
ゆっくりと顔が上がる。

な……ぉ……

掠れた声が、同じ音を繰り返した。
「……な……ぉ……な、ぉ……」

場内が一瞬だけ静まった。

「うわ、喋ったぞ」
「まだ意識あるのか?」
「それも仕様?」
「商品化するなら残してほしいなぁ」

沈黙は、すぐに品評へ塗り替えられた。

竹娘はクモ女を見つめていた。
敵には見えなかった。戦おうとしている者の目ではない。
壊れかけた声が、同じ音を繰り返している。

誰かの名前。きっと、彼女の子の名前だ。
自分が何に変えられても、水濃 佳澄はまだ子どもを探していた。

その頃。

闘技場最上部のVIP監視室では、太郎が防弾ガラス越しにクモ女を観察していた。

「……自我が残りすぎたか」

誰へ聞かせるでもなく、小さくつぶやく。

「兵器としては欠陥だ。命令へ従う程度の知性だけ残せばいい」

端末へ何かを書き込む。

「ただ、興行用なら悪くない。泣く、喋る、助けを求める。それ自体が付加価値になる」

その声は監視室の外へは届かない。

竹娘も知らない。

太郎はもう一度画面を見た。

「母親だった記憶も消す必要はないな。苦痛へ反応する程度に残した方が、客は喜ぶ」

満足そうに、記録項目へ印をつけた。

そこで、クモ女の腹部が大きく震えた。
卵嚢から子グモが床へ散らばり、ブリコ・モニトゥとローズ・マリガンへ向かっていく。

司会者の声が弾んだ。

「おおっと、アクシデント発生! 小型個体が控えの挑戦者へ向かっています!」

止めようとする者はいない。むしろ司会者は喜んでいた。

「これは予想外! さてさて、お二人はどうするのでしょう!?」

ローズ・マリガンは床に座り込んだまま、腰が抜けて動けなかった。
ブリコ・モニトゥが錆びた短剣を拾う。

手が震えていた。
脚も震えている。

それでも、ローズ・マリガンの前へ出た。

「だっ、大丈夫……わ、私が」

竹娘は、その背中を見た。
怖いはずだった。逃げたいはずだった。それでも、誰かを守ろうとしている。

先ほどスクリーンに映っていた女性と同じだった。

父とも同じだった。誰かを守ろうとすることを、この場所では愚かさと笑われるらしい。

青白い雷光が走った。
ブリコ・モニトゥたちへ迫っていた黒い影だけが、瞬く間に消えていく。

観客席が静まった。

「……え?」
「何だ、今の」

雷光の残滓が消える。
竹娘の右手には、青白い光剣が握られていた。

もう震えていない。息も切れていない。苦しそうな演技もなかった。

竹娘は二人の前へ立つと、クモ女へ向き直った。

子グモが二人へ向かった瞬間、竹娘は理解した。

水濃 佳澄自身に、もう戦う意思はない。
それでも、改造された身体は本人の願いとは無関係に人を襲い続ける。

ここで止めなければならない。

「……ごめんなさい」

何を謝ったのか、自分でも分からなかった。
助ける方法を持っていないことか。
子どもを救出できていないことか。
それとも、この人の最期を自分が決めることか。

ただ。

これ以上、この人を見世物にはさせたくなかった。

竹娘が一歩、踏み出した。観客には、それだけしか見えなかった。次の瞬間には、彼女はクモ女の背後にいた。

無数の青白い剣線が、遅れて現れては、瞬いて消える。
クモ女の身体は静かに崩れ落ちた。

歓声は上がらなかった。
誰も、何が起こったのか理解できていない。

「……斬っ…た?」
「いつ?」
「見えなかったぞ」

竹娘は振り返った。
クモ女はもう動かない。先ほどまで繰り返していた言葉も聞こえない。

表情から、張りつめていたものが消えていた。

もう苦しまなくていい。
けれど、最後まで呼んでいた名前へ、何も答えられなかった。

その子がどこにいるのか。生きているのか。

竹娘には、まだ分からなかった。

「な、何なんですか!?」

司会者の声が響いた。

「勝手なことをして! こちらとしても興行の進行というものがあるんです!」

竹娘は答えなかった。

「何です、その顔は! 私は仕事をしているだけですよ!?」

司会者は、沈黙されるほど饒舌になった。

「別に私が作ったわけじゃない! 連れてきたわけでもない! 用意された商品を紹介して、お客様に楽しんでいただいているだけです!」

商品。
竹娘の視線が、ほんの少しだけ司会者へ動いた。

「それに、あの女だって最後には人の役に立てたでしょう?
 つまらない仕事を続け、何も成せないまま長生きするより、こうして皆さんを楽しませられた方が、よほど価値のある人生だったんじゃないですかぁ?」

竹娘は、もう司会者を見ていなかった。
足元へ落ちていたクモ女の脚を一本拾い上げる。

「ちょちょ、ちょっと待ちなさいよぉ!」

司会者が一歩下がる。

「こちらは丸腰ですよ?弱い者へ手を出すなんて、近衛騎士としてどうなんです?」

竹娘の腕が動いた。
風が鳴る。
投げられた脚は司会者の頬すれすれを通過し、その背後の壁へ深々と突き刺さった。

鈍い音。

司会者は腰を抜かした。

「あひぃいいいいいいいいいっ!」

竹娘は最初から彼を狙っていなかった。その視線は、さらに上へ向いている。

闘技場の最上部。
VIP監視室。
厚い防弾ガラス。
その奥に、一人の男が立っていた。

太郎。

名前も、顔も、事前資料で確認している。

この施設の中心にいる男。竹娘は何も言わず、ただ見上げた。

防弾ガラスの向こうで、太郎も彼女を見ていた。
もちろん、互いの声は届かない。

「……何だ、その目は」

太郎が独りごちる。
返事などない。それでも腹が立った。

「被害者ぶった顔をするなよ。お前も今、あの女を殺したじゃないか」

竹娘は動かない。

「正義のつもりか?」

太郎は鼻で笑った。

「結局、お前も力を持ってるから他人の生死を決められる。こっち側の人間だろうが」

自分へ言い聞かせているような声だった。

「何が違う。何も違わない」

それでも、竹娘は無言でこちらを見ている。
その目が、太郎には気に入らなかった。

「……生意気なガキが」

端末の操作盤へ手を伸ばした。

竹娘には、太郎が何を言っているのか分からなかった。防弾ガラスの反射で口の動きが良く見えない。
だが、その表情を見れば十分だった。こちらを恐れ始めている。

それだけ分かればよかった。

次の瞬間、闘技場と観客席の間に透明なシールドがせり上がった。
光の壁が、竹娘たちを完全に囲む。
司会者まで驚いたように立ち上がる。

「シ、シールド!? え? どうして!?」

どうやら彼にも予定外らしい。
竹娘は光剣を下げ、背後へ目を向けた。

ブリコ・モニトゥ。
ローズ・マリガン。
二人とも無事だった。

ならば、まだいい。
やろうと思えばこの施設を吹き飛ばすことはできる。

だが、それでは足りない。
記録を押さえる。
人を救う。
関係者を特定する。

そして、二度と同じことを繰り返せない形で、この仕組みを潰す。
それが今日の仕事だった。

竹娘は静かに息を吸った。

あと六分。

それまでは、近衛騎士でいなければならない。
VIP監視室では、太郎が操作卓へ身を乗り出していた。

「もういい。興行は中止だ」

モニターには、光剣を下げた竹娘が映っている。

「見世物として使う必要はない」

指が新たな承認欄を押す。

「“ヤツ”を投入しろ」

司会者の通信機へ、今度は命令が直接送られた。

『な、なりふり構うな。“ヤツ”を出せ』

司会者の顔色が変わった。

「し、しかし、あれは試験運用中では……!?」

『設備なら作り直せる』

太郎はモニター越しに竹娘を睨んだ。

『あの近衛騎士を殺せ。それだけ優先すればいい』

司会者は唾を飲み込んだ。

「……は、はい」

闘技場の奥で、これまでより重い機構音が響き始める。
竹娘はその音へ顔を向けた。

最後に一度だけ、倒れたクモ女を見る。
そのまま、もう振り返らなかった。

どうして守ろうとした人間ばかりが傷つくのか。
その問いへの答えは、まだ持っていない。

けれど、必ずやり遂げると決めていることがあった。
この場所から、ブリコ・モニトゥとローズ・マリガンを生きて連れ帰る。
そして、この場所が二度と誰かを見世物にできないようにする。

それだけでいい。
竹娘は光剣を握り直した。

表情は静かなままだった。

試合開始から十九分。

残り六分。

胸の内に沈んだ怒りは、もう炎ではなかった。
冷えた刃のように、ただそこにあった。

第四項 十二体の名無し戦

闘技場の照明が落ちた。
クモ女が倒れた場所だけが、残光の中に取り残される。

竹娘は振り返らなかった。
胸の底へ沈めたものは、まだ冷たい刃のように残っている。それでも今は、感情より任務を優先しなければならない。

光剣を握る指から力を抜いた。
残り六分。
その時間さえ稼げば、ここを終わらせられる。

巨大スクリーンが点灯する。

B E S T I A R I U M P R O T O T Y P E

映し出されたのは、千年以上前の記録だった。
アルビオニア王国の地下から回収された、翼長三メートルほどのコウモリ型魔獣。

識別名、ノーバディ。

かつて政敵や反乱者を密かに処理するために使われた下級魔獣だという。
映像の年代が進むにつれ、その姿は人間へ近づいていった。

翼は縮み、四肢は長く伸び、黒いゲル状の身体から液体が滴る。首から腹部まで裂けた巨大な口だけが、生物らしい輪郭を拒むように残されていた。

試作名:ノーバディⅡ
興行名:名無し

「今回は、とある騎士団に敬意を表し、十二体をご用意しました!」

司会者が声を張り上げる。
敬意という言葉の使い方が、たぶん間違っている。

観客席が沸き立った。

「この広さで十二体か!」
「今度こそ近衛を倒せるぞ!」

竹娘は時計を見る。

試合開始から二十二分。

残り三分。

問題は勝てるかどうかではない。

十二体を相手に、三分も保たせられるかどうかだった。

重い鉄扉が開き、黒いゲルを滴らせた十二体の名無しが入場する。

竹娘はブリコとローズの前へ立った。

まず、二人を守る。
次に、三分を稼ぐ。
言葉にするだけなら、実に簡単だった。

竹娘は光剣を逆手に構え、観客席との間を隔てる透明シールドへ雷撃を叩き込んだ。

轟音とともに光の壁が砕ける。

無数の破片が宙で方向を変え、ブリコとローズの周囲へ集まった。破片同士が組み合わさり、二人を包む即席の防壁を形作る。

「竹娘さんも中へ!」

防壁が閉じる寸前、ローズが手を伸ばした。
竹娘は首を横に振った。

「私まで入ったら、誰が入口を守るの?」

十二体の影が、竹娘を取り囲んでいく。
彼女はローズを安心させるように、少しだけ笑った。

「大丈夫。こういう時のための近衛騎士だから」

厳密には、囮、役者、時間稼ぎ、護衛、破壊工作員まで兼任している。
近衛騎士の業務範囲は、ずいぶん広かった。

名無したちが一斉に襲いかかる。
竹娘は光剣を横へ払った。

一体目が雷光に呑まれる。

二体目の胸部を貫き、三体目の首を跳躍と同時に断つ。背後から迫った四体目は、振り返ることなく蹴り落とした。

五体目。

六体目。

七体目。

迫る影が、青白い閃光のたびに消えていく。
先ほどの痛みは、まだ胸に残っていた。ただ、それを振り回す必要はない。
怒りは静かに、竹娘の動きから迷いだけを削ぎ落としていた。

八体目が倒れる。

九体目が雷撃に消える。

十体目の腕を切り落とし、その刃で十一体目を貫く。

竹娘はそこで手を止めた。
静まり返った闘技場へ、黒い液体が落ちる音だけが響く。

「もう一体しかいないぞ……」
「速すぎて、何も見えなかった」

残った名無しが、竹娘の前へ立った。
今なら一撃で倒せる。

残り一分。普段なら短い。
演技だけで間を持たせるには、かなり長い。

仕方がない。もう一度だけ、女優へ戻る。

名無しの腕が振るわれる。

竹娘はわざと反応を遅らせ、自分から後方へ跳んだ。衝撃を受けたように身体を回転させ、床へ派手に叩きつけられる。

観客席が爆発したように沸いた。

「やっと効いた!」
「そのまま仕留めろ!」

竹娘は倒れたまま、薄く目を開けた。
演技は成功したらしい。

ただし、十一体を瞬く間に倒した直後である。いきなり弱くなる筋書きには、多少の無理があった。
役者への道は険しい。

「竹娘さん!」

防壁の向こうで、ローズが両手をついて叫ぶ。
ブリコが彼女を後ろから抱き止めた。

「駄目! 今出たら竹娘ちゃんの邪魔になる!」

最後の名無しが竹娘の髪をつかみ、ゆっくりと持ち上げる。

観客席から歓声が降り注いだ。

「とどめだ!」
「今度こそ終わりだ!」

竹娘は力なく両腕を垂らし、体内時計だけを追った。

二十四分五十七秒。

五十八秒。

五十九秒。

そして。

二十五分。

地下のどこかで、兎娘による情報回収が完了したはずだった。
もう、芝居を続ける必要はない。竹娘の瞳へ青白い光が戻る。

目の前の名無しが、わずかに身を引いた。
言葉を理解できるかは分からない。

それでも、自分が何かを間違えたことだけは察したらしい。
竹娘は静かに口元を上げた。

「……なーんちゃって」

光剣が閃く。
最後の名無しは、音もなく崩れ落ちた。

竹娘は着地し、乱れた髪を手で整える。

二十五分、ちょうど。

少なくとも、時間だけは完璧だった。
防壁の向こうでブリコが座り込み、ローズは胸元へ手を当てている。

「……本当に、演技だったの?」

竹娘は二人へ小さく手を振った。

「ご心配をおかけしました」

謝罪は真面目だった。
声には、ほんの少しだけ得意げな響きが混じっていた。

クモ女のことも、司会者の言葉も、忘れるつもりはない。
だが今は、二人を生きて連れ帰ることが先だった。

竹娘は光剣を下ろし、闘技場の上層を見上げる。

次は、仲間たちの番だ。
その瞬間、場内の照明が音を立てて消えた。

完全な暗闇が闘技場を包む。作戦の次段階が始まった。

第三幕 闘技場からの脱出

第一項 捕縛と救出

二十五分が経過した、その瞬間。
闘技場の照明が、音を立てて消えた。完全な暗闇が場内を覆う。

「停電か?」
「何が起きてる!」

観客席がざわめいた。彼らの目には何も映らない。
ただ、どこかで床を蹴る音がした。

続いて、短い悲鳴。防弾ガラスの砕ける轟音。
そして、何か巨大なものが闘技場へ着地した衝撃が、客席を揺らした。

誰も状況を理解できないまま、奇襲は終わっていた。
観客席の前方では、セレグレアが司会者を床へ押さえつけていた。

「痛い、痛ぁあい!! 痛いってヴぁ!」

司会者は必死にもがいたが、背中へ回された腕はびくともしない。
つい先ほどまで他人の苦痛を楽しげに実況していた人物とは思えないほど、自分の痛みには敏感だった。

一方、VIP監視室では、クイラが太郎の背後へ回っていた。
太郎が異変へ気づいた時には、両腕をまとめて締め上げられている。

「な、何だ貴様!」
「説明してる時間はねぇんだわ」

クイラは太郎を抱え上げると、そのまま防弾ガラスへ突進した。

「待て、そこドアじゃないっ!」

言い終える前に、ガラスが砕けた。
クイラは太郎を抱えたまま闘技場へ飛び降り、床へ着地する。

「姉御。いつもの、よろしく」
「はいよ」

セレグレアは司会者を引きずりながら、クイラのもとへ合流した。
二人の身体へ拘束具を巻きつける。
司会者も太郎も抗議しようとしたが、セレグレアは聞かなかった。悪事の釈明は、脱出してから好きなだけ司法へ話せばよい。

彼女が片手を上げると、巨大な兎型の召喚獣が顕現した。
召喚獣は大きく口を開き、拘束された二人をまとめて飲み込む。

「いやあああ! 食べられる!」
「安心しろ。収納されるだけだ」

セレグレアの説明は正確だったが、飲み込まれる側を安心させる効果はなかった。
その頃、クイラは即席の防壁へ向かっていた。

「救出対象、確保するぞ!」

クイラが拳を振るうと、防壁の一部が崩れた。
中にいたブリコとローズが身を寄せ合う。
助けが来たと理解するより早く、クイラは二人を左右の腕へ抱え上げた。

「ちょっと窮屈だが、我慢してくれ。緊急事態ってことで、後から訴えないでもらえると助かる」

「ひゃっ!」

ブリコが驚き、ローズも息を呑む。
クイラは二人を落とさないよう抱え直した。

「オレ、こう見えて繊細なんだわ」

聞かされても困る自己申告だった。
竹娘が駆け寄る。

「二人とも、怪我は?」
「大丈夫。びっくりしただけ」

ブリコはクイラの腕の中から答えた。ローズも緊張した面持ちで頷く。
ようやく、自分たちを助けるための作戦が本当に動いていたのだと理解し始めていた。

セレグレアは通路へ続く扉を示した。

「いい役者だったぜ、竹娘。こっちだ。兎娘が脱出地点で待ってる」

森林や市街地での戦闘ならともかく、魔獣を相手に苦戦する演技を二十五分も続ける任務は、竹娘にとっても初めてだった。
ひとまず演技が通用したらしい。
最後の一分に多少の無理があったことは、今は黙っておくことにした。

「LPSDが突入する前に、ここを離れるぞ」

クイラが先頭に立つ。
竹娘は光剣を消し、二人の後ろを守る位置へ回った。

「了解です」

暗闇の中で聞こえた竹娘の声に、ブリコとローズの強張った身体から、わずかに力が抜けた。
騒音と悲鳴ばかりだった闘技場で、二人にとって初めて安心できる声だった。

一行は暗い通路へ駆け込む。

その背後で、非常用電源が作動した。

赤い照明が闘技場を照らし、観客たちはようやく状況を目にする。
司会者の姿はない。

VIP監視室の防弾ガラスは砕かれ、太郎も消えている。

十二体の名無しは全滅。
三人の挑戦者も、すでに闘技場から離れつつあった。

観客たちが理解したのは一つだけだった。
見世物にしていたはずの者たちが逃げ、自分たちだけが取り残された。

奇襲開始から、わずか一分。
五分を予定していた首謀者の捕縛と救出対象の確保は、想定より四分も早く完了していた。

作戦は、少々できすぎなくらい順調だった。
もっとも、竹娘たちにとってはまだ脱出の途中である。
ベスティアリウムでは、順調という言葉を口にした直後ほど、ろくでもない事態が起こりやすかった。

第二項 LPSD機動隊突入

非常用電源が作動した。
闘技場の天井に並ぶ警告灯が、一斉に赤く染まる。

突然の光に、暗闇へ慣れかけていた観客たちは目を覆った。

「まぶしい!」
「何が起きてるんだ!」

答えが返るより早く、四方の扉が爆ぜるように開いた。
黒い装甲服に身を包んだLPSD機動隊が、闘技場へ雪崩れ込んでくる。

観客席へ催涙剤が撃ち込まれ、白煙が通路を埋めた。別の部隊はステージへ降下し、施設の職員と警備兵を次々に制圧していく。

ほんの数秒で、闘技場の出入口はすべて封鎖された。

つい先ほどまで他人の恐怖を娯楽にしていた観客たちが、今度は自分たちの逃げ道を探していた。

「やめろ! 俺は客だぞ!」
「私は関係ない!」
「招待されて来ただけだ!」

責任というものは、催涙剤よりも早く拡散するらしい。
互いを押しのけ、通路へ殺到する。
しかし、どの扉にも武装隊員が立っていた。

逃げ場はない。
少なくとも、観客たちはそう思っていた。
その時、客席後方から重い機械音が響いた。床が開き、座席を固定していたレールが露出する。
観客たちの腰と肩へ、拘束帯が自動的に巻きついた。

「何だ、これ!?」
「外せ! 勝手に動かすな!」

座席が列ごと後方へ滑り始める。
ベスティアリウムには、興行中の事故や当局の踏み込みに備えた脱出機構が用意されていた。

観客を座席へ固定し、そのまま個人用脱出艇へ収容する。あとは射出レールで施設外へ送り出し、登録された目的地まで自動航行させる仕組みである。
安全性と証拠隠滅を兼ねた、実に用意のよい設備だった。

「待て、どこへ運ぶ気だ!」
「俺の船は別の格納庫だぞ!」
「ちょっと待てえええ!」

加速した座席が、次々と脱出艇へ吸い込まれていく。
機体が閉じるたび、短い警告音が鳴った。
やがて闘技場の外壁が開き、個人用脱出艇が一斉に射出される。

数十の機体が、少惑星の夜空へ散っていった。
観客たちは逃げ切れたと思った。

しかし、その航路、通信先、認証情報は、すでに兎娘によって記録されている。
彼らが向かう先には、住居、企業、支援者、資金提供者がいる。
捕まえるのは、今でなくてもよい。
むしろ逃げてもらった方が、その背後にいる者たちまで見つけやすい。

逃走ではない。これは、追跡の始まりだった。
赤い非常灯の下で、無人となった客席だけが静かに並んでいる。

人間を使い捨ての商品として扱ってきた施設は、最後には観客まで梱包し、規格どおり宇宙へ送り出した。

ベスティアリウムにおいて平等だったのは、誰もが商品として扱われ得るという一点だけだった。

第三項 ”再会”

脱出地点へ続く通路は薄暗く、赤い非常灯だけが床を照らしていた。
竹娘たちは、追っ手を警戒しながら先を急いでいた。

その通路の奥に、一人の少女が立っている。

長い兎の耳。金色の髪を結んだツインテール。非常灯を映した、桃色の瞳。
少女は壁へ背を預け、腕を組んでいた。

「遅かったな、フィニ」

懐かしい呼び方だった。

「……じゃなかった。今は竹娘だっけか」

胸の奥で、何かが弾けた。竹娘の足が止まる。聞き間違えるはずがない。
何度も夢に見た。もう二度と聞けないと思っていた声だった。

「エル……?」

その名を口にした途端、喉が震えた。
ネザーランド・フォン・エルザェム。
六年前、惑星トトで失ったはずの幼なじみが、目の前にいる。
少女はほんの一瞬だけ目を細めた。
けれど、すぐに人差し指を立てる。

「ストップ。ここじゃ、いやこれからは兎娘だ」
「でも……」
「作戦中だぞ」

分かっている。
ここはまだ敵地で、救出した二人もいる。施設の封鎖が始まれば、脱出経路が使えなくなるかもしれない。
それでも竹娘は、動けなかった。
目を離したら、また消えてしまいそうだった。

「私……」

声がうまく出ない。胸の奥に閉じ込めてきた言葉が、一度に込み上げてくる。

「あの時、ごめん。私だけ逃げて……エルを置いて……」
「違う」

兎娘の声が、鋭く遮った。
竹娘は息を止める。
兎娘は腕をほどき、竹娘の前まで歩いてきた。

「お前が私を置いていったんじゃない。私も、お前を置いていったんじゃない」

その声は強かった。強すぎるほどだった。

「別々の場所にいたんだ。あんな状況で、誰が誰を助けられたってんだよ」

兎娘は竹娘の額を、指先で軽く小突いた。
昔、無茶をした竹娘をたしなめる時と同じ仕草だった。

「だから謝るなって」
「う、うーん……」
「謝られると、困るんだよ」

声がわずかに揺れた。竹娘は顔を上げた。兎娘はもう目を逸らしていた。
いつもの強がった顔に戻っている。けれど、握られた拳だけは固い。

竹娘には、その先を尋ねられなかった。
兎娘もまた、誰かを助けられなかったと思いながら、今日まで生きてきたのかもしれない。
自分へ向けた言葉と同じものを、兎娘は何度も自分自身へ言い聞かせてきたのかもしれない。

お互い、生き残っただけで十分。
それは慰めであると同時に、そう信じなければ歩き続けられない者の言葉にも聞こえた。

「エル……」

竹娘の目から、涙がこぼれた。兎娘は困ったように眉を寄せる。

「だから、ここじゃ兎娘だって」
「分かってるよ……」

竹娘の声が崩れた。

「生きてたんだ……」

言いたかったことは、謝罪だけではなかった。
会いたかった。
無事でいてほしかった。
どこかで生きていると信じたかった。

けれど、本当に生きて目の前に立っている姿を見たら、どの言葉も涙になってしまった。

竹娘は兎娘へ手を伸ばしかけた。
抱きしめてもよいのか分からず、途中で止める。

その手を、兎娘がつかんだ。

「私も生きてる。お前も生きてる」

桃色の瞳が、まっすぐ竹娘を見た。

「今は、それでいい」

竹娘は何度も頷いた。それ以上を話せば、二人とも立てなくなる。
だから兎娘は過去へ踏み込まない。
竹娘にも、踏み込ませない。
今は帰ることだけを考える。

クイラが、申し訳なさそうに頭をかいた。

「知り合い同士だったのか。兎団の奴も、人が悪いな」

少し間を置き、脱出路の先を指す。

「感動の再会は帰ってから頼む。ここ、まだ敵地だからな」

セレグレアも周囲を警戒したまま頷いた。

「急ごう。じきに少惑星全域が封鎖される」

兎娘は竹娘の手を離した。

「聞いたろ。泣くのは帰ってからにしろ」

それから、言いかける。

「フィ……」

兎娘は一度だけ口を閉じた。

「竹娘」

昔の名ではなく、今の彼女を呼んだ。竹娘は涙を手の甲で拭った。

「……うん」

鼻をすすり、どうにか笑う。

「久しぶりに、鼻水まで出た。帰ろう、エ……兎娘」

危うく呼び間違えた竹娘へ、兎娘は呆れたような笑みを返した。

「帰るぞ、竹娘」

二人は並んで走り出した。
過去については、何も話せなかった。

トトで何が起きたのか。
誰を失い、どうやって生き残ったのか。
この六年間、どこで何をしていたのか。

問いは数え切れないほど残っている。
それでも竹娘は、兎娘の隣を走っていた。

もう記憶の中ではない。手を伸ばせば届く場所にいる。

今は、それだけで十分だった。

救出艇が少惑星《アドレナ》を離れる。
窓の外で、地下闘技場の光が小さくなっていった。

ブリコとローズは、竹娘の手を左右から握っている。
竹娘はその手を握り返しながら、向かい側に座る兎娘を見た。

兎娘も、一瞬だけ竹娘を見る。

どちらからともなく、小さく笑った。
言葉にできない過去は、まだ二人の間に横たわっている。
けれど、その過去へ戻るためではなく、ともに生きて帰るために。

二人はようやく、同じ場所へ向かっていた。

第四幕 帰るべき場所

第一項 救出艇の中で

救出艇が少惑星《アドレナ》を離れた。
窓の外で、ベスティアリウムの灯がゆっくりと遠ざかっていく。

誰も、すぐには言葉を発さなかった。
戦闘も、追跡も、脱出も終わった。それでも身体だけは、まだ危険の中にいるつもりらしい。張りつめた呼吸が、狭い船室のあちこちから聞こえていた。

竹娘は座席へ着くより先に、ブリコ・モニトゥとローズ・マリガンの前へ膝をついた。

「首は苦しくない? 手首も見せて。ほかに痛いところは?」

二人には、首輪と手枷の跡が残っている。
竹娘は自分のかすり傷には目もくれず、一つずつ状態を確かめていった。

「でも、竹娘さんの方が……」

ローズ・マリガンがためらいがちに言った。

「あんなに戦っていたのに」

「過ぎた謙遜は、かえって嫌味になりますゆえ」
竹娘は胸へ手を当て、妙に改まった口調で答えた。
「あの程度の魔獣から受けた身体的な損傷は、ゼロです。よって、私の手当ては不要です」

最後に小さく笑う。
その笑顔を見て、ローズ・マリガンの肩から、ようやく少し力が抜けた。

ブリコ・モニトゥはしばらく竹娘を見つめていたが、急に両手を胸元で組んだ。

「たけのこさまぁ……今宵、この身をあなたへ捧げます」
「はい?」

竹娘の手が止まった。

「助けてもらった恩を、一生かけて返すという意味なの」
「なるほど。今のご説明のおかげで、ぜんぜん違う覚悟は要らないんだと分かって、ホッとしました」

重かった空気に、初めて小さな笑いが生まれた。
少し離れた座席には、鷹栖太郎と司会者が固定されていた。
両腕と両脚を拘束され、口元も分厚い装具で覆われている。
首には、声帯の振動だけを読み取る金属製のリングが巻かれていた。闘技場で捕虜たちの声を拡声していた技術が、今度は運営側へ使われている。
皮肉としては、かなり完成度が高かった。

クイラが救出された二人を見回した。

「よく頑張ったな。もう安全圏だ」

その一言を聞いた途端、ブリコ・モニトゥは座席へ深く沈み込んだ。

「ぷはぁ……生きてる……」

ローズ・マリガンも目を閉じた。胸の前で組んだ指が、かすかに震えている。
母親が命を懸けて守った時間が、ここまで自分を運んでくれた。
声には出さなかったが、彼女は心の中で何度も礼を告げていた。

セレグレアは、向かい側に座る竹娘へ目を向けた。

「お前もよくやった。あの芝居、なかなかのものだったぜ。女優でも食っていけるんじゃないか?」
「なかなかの役者だったでしょう?」

竹娘は得意げに胸を張った。

「ただし、ちょっとでも長い台詞を渡されると駄目です。大根役者なので」

「大根でも売れる時代だろ?」
クイラが何気なく口を挟む。

セレグレアの目が鋭くなった。

「誰が大根足だ!!!」
「足とは言ってねえよ!」

安堵していた船内へ、クイラの叫びが響く。

「誰が聞いても演技の話だったろ! 最初に役者の話を始めたのは姉御じゃねえか!」

セレグレアは少し考えた。

「……そうだったか。なら許す」
「何で俺が許される側になってんだよ。許されなかったらどうなるんだよ」

もっともな疑問だったが、深追いすれば許されない展開になりかねない。クイラは賢明にも口を閉じた。

そのやり取りを見て、ローズ・マリガンが小さく笑った。
自分でも驚いたように口元を押さえる。笑い声が出たのは、捕らえられてから初めてだった。

ブリコ・モニトゥは、その変化を見逃さなかった。

「笑った方がいいよ。私たち、助かったんだから」

そう言ってから、竹娘の手を両手でつかむ。

「本当にすごかったです。蹴って、斬って、雷を出して。それに、私たちへ『後ろにいて』って」

ブリコ・モニトゥは表情を引き締め、竹娘の真似をした。

「ブリコちゃん、君のことは、俺の命に代えても必ず守る……って、くぅぅうう、惚れちゃいそうだったよ!」

「そんな言い方はしてないよ!そんな顔もしてないよ!?」

「してたの!私にはそう見えたの!
 で、月京 竹娘ちゃん、恋人は!? もしかして許嫁がいたり? それとも自由恋愛!? ねぇねぇ!!」

カウガールビキニ姿でにじり寄ってくるブリコの勢いに押され、竹娘は思わず上体を反らした。

「えっ……こ、恋人……?」

思いがけない言葉だった。頬に差した熱は、少しずつ耳まで昇っていく。
目の前の迫力も相まって、竹娘は普段のように軽口を返す余裕を失っていた。
これまで、恋人どころかボーイフレンドさえいたことがない。

…ただ、気になる相手ならいるかもしれない。
竹娘が途切れ途切れにそう打ち明けると、ブリコは大げさなほど目を見開いた。

「嘘!? 竹娘ちゃんほどの子が? 逆に奇跡じゃん!」

しかも、気になる相手はいる。その事実だけで、ブリコの想像力には一気に火がついたらしい。

「いやぁん、一途な恋の予感! 銀河級の戦乙女でも、やっぱり女の子なのね!」

ローズは少し落ち着くよう促しながらも、興味までは隠せなかった。
人知を超えた存在が恋慕の情を抱く相手とは、いったいどのような人物なのか。それは確かに気になる。

その言葉を聞いたブリコは、待っていましたとばかりに身を乗り出した。
恋には順序というものがある。まず気になり、次第に目で追うようになり、距離が近づくだけで胸が高鳴る。
そして最後には、初めてのデートや手をつなぐ瞬間、どちらから告白するのかという一大局面がやってくるのだという。

矢継ぎ早に浴びせられる質問を前に、竹娘はしばらく目を瞬かせた。だが、自分の経験を順に振り返るうち、少しだけ首を傾げた。

「気になる前に、おいしい料理を作ってもらって、部屋に泊めてもらって、一緒の布団で寝て……」

その場の空気が一瞬だけ止まった。
竹娘は気づかず続ける。気になり始めてからは、一緒に商店街で買い物をし、映画を観て、自動車でドライブをした。
その途中では、悪党を気取りながらも根は善良な者たちと戦うことにもなった。

ブリコの表情が、驚愕という一語では足りないほど大きく変わった。

「えっ…えっ…ええっ!? ちょっと待って!? それ全部、“気になる”前後に済ませたの!?
 恋愛定番イベントを一通りクリアしてから、ようやく”気になってる”の!?
 逆ゥゥウ!!!」

ブリコは竹娘の肩を掴み、勢いよく揺さぶった。

「それ、もう恋人突入コースだよ! 恋愛のチュートリアルを飛ばして、いきなり本編に入ってるから!」

揺さぶられる竹娘を見ながら、ローズは密かに感心していた。そこまで自然に懐へ入ることを許された相手は、竹娘からどれほど深く信頼されているのだろう。
一方、兎娘は別の部分に引っかかっていた。

「“気になる前”に同じ布団で寝てんのかよ! チャンバラと虫取りばっかしてたお前が、恋バナしてる……。どっか壊れたのか?」

竹娘の眉がぴくりと動いた。

「お互い十歳までしか知らないんだから、黙っときんしゃい!」

兎娘まで、かつての竹娘は恋よりカブトムシを優先する人物だったと口を挟んできた。
それは聞き捨てならない。竹娘は妙に真剣な顔になり、カブトムシとクワガタムシの違いも分からないのかと反論した。
そこで兎娘は思い出した。そういえば、竹娘はクワガタムシ派だった。こういう部分だけは、昔から決して譲らない。

張り詰めていた空気は、いつの間にかすっかり緩んでいた。
ブリコは改めて、肝心の相手について尋ねた。優しいのか、強いのか、格好いいのか。それとも、ほかに何か特別なところがあるのか。

竹娘は両手を頬に添え、なぜか人物紹介でも始めるような調子になった。

年下で誕生日は七月七日。身長は目測で百五十八センチほど。体重は、抱えた時の軽さから考えて四十七キロくらい。
優しすぎて心配になる人物でありながら、一緒にいると救われるのは、いつも竹娘の方だった。
そこまで語った竹娘は、最後に最も重要な情報を付け加えた。

「それから、言葉にできないくらい、おいしい料理を作るの」

ブリコは声にならない歓声を上げた。
相手は年下らしい。それだけでも十分だったのに、「抱えた時」という新たな情報まで飛び出している。竹娘は王子様なのか。守ってあげたくなる相手から、逆に守られる側なのか。
その落差があまりにも大きい。
興奮しきったブリコを見つめ、竹娘はようやく我に返った。

「……やっぱり、今までの話、全部嘘だったことにしてもらっていいですか?」

もちろん、もう遅かった。
ローズは、竹娘への印象を、ひっそりと修正していた。少なくとも今の竹娘は、恋の話に翻弄される年相応の人物にしか見えない。

少し離れたところでは、クイラがセレグレアに、この輪へ混ざらないのかと小声で尋ねていた。
セレグレアは顔をしかめた。若者たちの、聞いているだけでくすぐったくなるような会話へ、既婚者の自分が入れるはずがない。
だがクイラは引き下がらなかった。

「結婚前なら、その手の話はいくらでもあっただろう?。たとえば、旦那が大学受験に落ちた時…」

そこでセレグレアは、何も言わずにクイラを見た。
その視線だけで十分だった。

「すいませんした」

クイラは即座に謝り、会話はそこで打ち切られた。

重苦しかったはずの場には、いつの間にか小さな笑いが戻っていた。誰もが無事だったことを確かめるように、他愛のない言葉が行き交いはじめていた。

ローズ・マリガンまで静かに頷いている。

「あの時、竹娘さんの背中を見ていたら……もう少しだけ頑張れる気がしました」

竹娘は言葉を失った。
自分にとっては任務だった。けれど二人にとっては、絶望の中で初めて見つけた逃げ道だったのだろう。

「……そっか」

それだけ答え、照れ隠しに頬をかいた。

「じゃあ、頑張った甲斐はあったかな」

「ありすぎるよ~!」

ブリコ・モニトゥが勢いよく抱きつく。彼女の胸に押された竹娘の背中が、座席へ沈んだ。

「ちょ、ちょっと待って。首輪の跡を診ていたはずなのに、なぜ私が圧迫されているのかな」
「感謝の圧力♪」
「物理的にかぁ。あったかいパイパイ、参りました!」

竹娘の幸福(降伏)宣言に、ローズ・マリガンが、また笑った。
今度は口元を隠さなかった。

向かい側では、兎娘が腕を組んだまま、その様子を眺めている。
顔には呆れが浮かんでいた。けれど、桃色の瞳はわずかに和らいでいた。

六年前に失ったと思っていた幼なじみが、今は救った人々に囲まれている。
それについて口にするつもりはなかった。今は、誰も欠けずに帰れるだけで十分だった。

救出艇は静かに航路を変え、ルナ=クラリオンへ向かう。
船内には、もう悲鳴も怒号もなかった。

代わりに聞こえるのは、ブリコ・モニトゥの明るい声と、竹娘の困った抗議。そして、時折こぼれるローズ・マリガンの笑い声だった。
長い夜は、まだ終わっていない。それでも、その先に帰る場所があることを、全員がようやく信じ始めていた。

第二項 偽銘

救出艇には、ようやく穏やかな空気が戻りつつあった。
その空気を読まず、拘束席から怒声が飛んだ。

「貴様ら、こんなことをして無事に済むと思うなよ! 俺を誰だと思っている!」

一同の視線が、拘束された鷹栖太郎へ集まる。
竹娘は小さく首を傾げた。

「鷹栖太郎になりすましている、偽ルナルナ国民ですよね?」

そして、確認するように続ける。

「ウルク・ニマンさん」

鷹栖太郎の顔が固まった。その反応だけで、答え合わせは終わっていた。

クイラは深く息を吐く。

「いや空気読めよおっさん。この流れでそのセリフは反則だろ(笑)」
「うるさい!」

鷹栖太郎が顔を赤くする。
その隣では、司会者が拘束具の中で小さくなっていた。
ブリコ・モニトゥは彼を見つけると、はっきりと顔をしかめた。

「あなた大っ嫌い!!!黙ってそこで縮こまってて!!!」

司会者は弾かれたように顔を上げた。

「違うの! 私の名前はリン・カサン。これは本名よ!」

誰も偽名かどうかは聞いていなかった。

「ごめんなさい、ブリコ・モニトゥさん、ローズ・マリガンさん! あれは仕事だったの! そこの男に脅されて、仕方なく!」

ブリコ・モニトゥとローズ・マリガンは、同時に一歩だけ後ろへ下がった。
申し合わせたわけではない。ただ、身体が同じ結論へ達しただけだった。

「嘘!!!」

ブリコ・モニトゥは即答した。

「あれだけ次々とひどい言葉の雨あられ、全部『仕方なく』で出てくるはずない!!!」

ローズ・マリガンは口を開かなかった。
母親の最期を、リン・カサンは笑いながら紹介した。その声を思い出すだけで、胸の奥が再び冷たくなる。
リン・カサンは二人の反応に慌てた。

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! でも、私は司会をしていただけなのよ!」

自分で言ってから、それでは弁明にならないと気づいたらしい。

「それに、ショーの映像、生体兵器と違法コピー化粧品でカネ儲けしてるそこのクソゲス野郎よりマシでしょう!?」

主張の基準が、急に最下層同士の比較になった。鷹栖太郎のこめかみが引きつる。

「貴様、誰に向かって口を」
「うるさい! 特権階級気取りの、身元詐称ゲロカスクソゲス野郎!」

リン・カサンは、拘束されたまま精いっぱい胸を張った。

「お前はもう終わりよ!」

そこで少し考えた。

「……私もだけど」

救出艇の空気が、静かに止まった。
潔いのか、単に諦めが早いのか、誰にも判断できなかった。

その沈黙を破ったのは、鷹栖太郎だった。

「……お……あ……あが……」

全員の視線が、再び彼へ集まる。
兎娘は眉をひそめた。

「何、その沈黙の破り方」

鷹栖太郎の頬へ、細い亀裂が走った。
亀裂は瞬く間に顔の半分へ広がり、表皮が薄い殻のように剥がれ落ちる。
その下から現れたのは、人間の皮膚ではなかった。

硬い外殻。濁った複眼。細かく震える昆虫の口器。

ブリコ・モニトゥが座席へ飛び退いた。

「何これ! さっきのカマキリ人間と同じ!?」

竹娘は変形していく頭部をじっと観察した。
カマキリとは少し違う。
触角と口器の形を見る限り、キリギリス亜目。その中でもコオロギ科に近いように見えた。

救出直後の船内で考えることとして正しいかどうかは、別の問題だった。

セレグレアは拘束席へ近づき、変質した皮膚を確認した。

「こいつの意思で変身してるんじゃないな」
「では、何なのですか?」

竹娘が尋ねる。

「口封じだろう。捕まった時に作動するよう、誰かが仕込んでいたらしい」

鷹栖太郎の身体が大きく痙攣した。

「うぎゃああああ!」

リン・カサンは反射的に両手を上げようとした。

もちろん、拘束されているため一ミリも上がらなかった。

「ぃよっしゃあああ!くたばれ~! はい、さようなら! 永遠に存在終了!」

別れの挨拶としては、かなり雑だった。

直後、変化が破綻した。
鷹栖太郎の身体が輪郭を失い、黒い微粒子へ崩れていく。
「んごぉおおおおっ!」
最後に意味の分からない声を残し、彼は船室の中へ盛大に飛散した。

乾いた破裂音。
そして、沈黙。

座席だけが残った。

しばらく、誰も動かなかった。
竹娘が、床に積もった黒い粉と空になった拘束具を見比べる。

「結局、何だったんだろう。この人」

誰も答えない。

「怒鳴って、偉そうにして、最後は粉になったね」

人物評としては正確だった。
正確だが、事件の核心には一歩も近づいていなかった。

兎娘は腕を組み、鼻を鳴らす。

「どうせ、ろくな奴じゃなかったんだろ……粉になったし」

粉末化と人格評価の因果関係については、説明されなかった。
全員が兎娘を見た。ずいぶん雑にまとめたものだと、その視線だけが雄弁に語っていた。

兎娘は渋々立ち上がった。

「私は掃除係じゃねえんだけどな……」

嫌そうに片手を伸ばす。指先が、わずかに震えていた。
平然としているように見えても、人間のような何かが目の前で粉末化した直後である。誰でも多少は動揺する。

船室の空気に、微弱な電界が生まれた。
兎娘自身の静電気と共鳴し、漂っていた微粒子が一斉に動き始める。
黒い粉は渦を巻き、一点へ集まっていった。

「わあ……」

ブリコ・モニトゥが目を輝かせる。

「高性能掃除機みたい」
「集塵機と言え、乳デカ」

兎娘は悪口を添えつつ、真顔で訂正した。どうやら彼女にとって、その違いだけは譲れないらしい。
やがて黒い粉は圧縮され、サッカーボールほどの球体へ変わった。

黒光りする球を前に、竹娘は少し考える。

「フンコロガシみたいだね」
「片づけてやった相手に、何てこと言うんだ!」
「兎娘がフンコロガシって意味じゃないよ?」
「分かってる! でも、黒い球を転がす役になった時点で手遅れなんだよ!」

一応、遺体回収中である。リン・カサンは空になった拘束席を見て、満面の笑みを浮かべた。

「やった! 今日から私は自由よ!」

そこで、自分の拘束具へ視線を落とす。

「……この後、牢獄生活だけど」

自由の期間は三秒ほどだった。竹娘は彼女の前へ歩み寄った。

「司法取引に使える情報はございますか?」

リン・カサンが顔を上げる。

「証言の内容によっては、証人保護を受け、別人として生活できる可能性があります」

「ある!」

返答は即座だった。

「情報なら山ほどあるわ! むしろ尋問して! 今なら聞かれていないことまで全部喋れる!」

「本当に反省してるのかな、この人」
ブリコ・モニトゥが疑わしそうに見つめる。

リン・カサンは何度も頷いた。
「してる! 反省も証言もする! 報酬の隠し場所も、顧客名簿も、裏口座も、司会台本を書いた人間の嫌いな食べ物まで知ってる!」

最後の情報だけ、使い道が分からなかった。

ブリコ・モニトゥは唇を震わせ、握った拳を胸元へ引き寄せた。
「竹娘ちゃん、優しすぎるよっ! ……お前は、打首獄門にならないだけでも、ありがたく思え……っ!!!」

ローズ・マリガンは、黒い球体、即座に寝返った司会者、昆虫の分類を始めた近衛騎士、遺体を集塵した兎娘を順番に見た。

先ほどまで、自分は魔獣に襲われていた。
今は、人間だった粉を丸めながら司法取引の相談が進んでいる。

助かったことは間違いない。ただし、自分を救出した者たちは、自分が想像していたよりずっと奇妙な世界で生きているらしい。

救出艇は、何事もなかったようにルナ=クラリオンへ飛び続けていた。
黒い球体が、航行の振動で一度だけ転がった。兎娘が無言で元の位置へ戻した。

誰も何も言わなかった。

第三項 オヤスミナサイ

救出作戦を終えた一行は、天宮城の居住区へ案内された。

ベスティアリウムを離れてからも、誰もがどこか身体を強張らせていた。もう追っ手はいない。警報も銃声も聞こえない。それでも、危険が終わったという実感だけが、なかなか追いついてこなかった。

長い廊下を歩いていると、兎娘が竹娘を横目で見た。

「まずは、フィ…竹娘の汗のニオイを落とさなきゃな。」

危うく昔の呼び名を口にしかけたが、今度はきちんと飲み込んだ。

「素直に“風呂入りたい”って言えんのか!」

竹娘が即座に返す。

「竹娘ちゃんは臭くないよ」

ブリコが真剣な顔で割り込んだ。

「これは助けに来てくれた竹娘ちゃんの努力が発酵した匂いなんだから」
「うれしいけど、その擁護は清潔感が一時撤退してることを隠せてないね( ̄∇ ̄;)」

汗の匂いについては全面的に認めていたが、ブリコなりの最大級の賛辞ではあるらしい。
ローズが小さく笑う。
その笑いを聞いて、一行の足取りもわずかに軽くなった。

天宮城の軍用浴場には、広い湯船と個別の洗浄区画が備えられていた。
救出された二人には医療担当者が付き、首輪や手枷の跡を確認していく。

「……なんで全員で一斉に入るんだよ……」
クイラがぼそりと呟き、落ち着かない様子で身体を洗い始めた。

竹娘・兎娘・ローズの三人は、ブリコの身体を見て思わず目を丸くした。

「少年紙の巻頭グラビアそのまま……」
竹娘がぽつりと呟く。

「う、うぉおおおお。」
兎娘は言葉にならない声を漏らし、

「……すごい迫力……」
ローズは素直に驚嘆した。

「うひゃあ、サービスショットだよ〜」
温かい湯へ身体を沈めながら、ブリコが長い息を吐いた。

「生き返る……」

「さっきから何度も生き返ってるね」
竹娘が隣で笑う。

「だって、そのたびに本当に助かったって思うんだもん」
ブリコは湯へ顎まで沈み、目を閉じた。

ローズも少し離れた場所で、湯面を見つめていた。

手首にはまだ赤い跡が残っている。それでも今、身体を包んでいるのは拘束具ではなく、ただの温かな湯だった。
その違いを確かめるように、彼女はゆっくり指を開いた。
兎娘は何も言わず、その様子を横目で見守っていた。

竹娘も声を掛けなかった。
今は、静かにしておく方がよい時もある。

湯気の向こうでは、クイラが妙に落ち着かなさそうにしていた。

「……何だか、俺だけ場違いじゃねえか?」

「今頃気づいたのか」

セレグレアが即答する。

「救出対象の医療確認が終わるまで待機だ。黙って温まってろ」
「了解」

クイラは背筋を伸ばした。
それから、黙っていろと言われたため、本当に一言も話さなくなった。
その従順さがかえって不自然だった。

「クイラさん、大丈夫?」

ブリコが声を掛ける。クイラをちらりと見て、にこっと笑った。
「クイラさんは変なことしないでしょ?  だから大丈夫だよ〜。」

クイラは一瞬固まり―― 次の瞬間、浴槽から飛び出しその場で腕立て伏せを始めた。
床がわずかに揺れるほどの勢いで、 秒速3回は超えている。
「い、いや……!
 あんまり大人をからかうんじゃないっ……!
 ……湯気が熱いなぁ!!!」

セレグレアは深いため息をついた。いつもの調子だった。
「……みんな放っておいてくれ。コイツしばらく止まんねぇわ。」

入浴を終えると、温かい食事が用意されていた。
味の薄いスープと柔らかなパンという簡素なものだったが、ブリコは何度もお代わりした。

ローズも最初は手をつけられずにいたものの、竹娘が隣でゆっくり食べ始めると、やがてスプーンを取った。

一口。
もう一口。
食べられる。
飲み込める。

そんな当たり前のことが、今夜の二人にとっては、自分の身体を取り戻すための小さな確認だった。
竹娘は何も急かさず、同じ速さでスープを飲んだ。

食後、一行はそれぞれの部屋へ分かれることになった。

クイラは拘束されたリンの監視を任された。
「せっかくだから、いろいろ話してもらうぞ。興行の運営体制とか、顧客名簿とか」
「やめて! 怖いことしないで!」
「話を聞くだけだって!」

二人の声は、廊下の奥へ遠ざかっていった。リンの方がよほど騒がしかった。

セレグレアは、その背中を見送ると別方向へ歩き出した。

「どこへ行くので?」
竹娘が尋ねる。

「射撃場」
「もう作戦は終わりましたけど?」
「だからだ。落ち着くまで、少し撃ってくる」

それが彼女なりの気持ちの切り替え方らしい。
セレグレアは片手を上げ、そのまま廊下の角へ消えていった。

ブリコとローズは、竹娘と兎娘の部屋へ案内された。
部屋には二台のベッドと、予備の寝具が用意されている。
兎娘はブリコへ毛布を差し出した。

「おぃ乳デカアイドル、お前は床で寝ろ」
「ひどい。竹娘ちゃんと一緒がいい!」
「何で私のベッドが先に候補から外れてるんだよ」
「兎娘ちゃん、寝相が激しそうだから」
「勝手な印象で決めるな」

ブリコは予備の寝具を抱えたまま、竹娘を上目遣いで見た。
竹娘は苦笑する。
「狭くてもいいなら、好きにしていいよ」
「やった♪ ……今宵、この身をあなたへ捧げます」
「その台詞、本日二回目だけど、今回は別の意味にしか聞こえないね?」

先ほどまで命を狙われていた人物とは思えない速さで、ブリコは寝床を確保した。
ローズは部屋の入口で立ち止まっていた。

「あの……私は」

兎娘は一瞬だけ目を逸らした。

「私の方を使えばいい」
「でも、ご迷惑では」
「私がそう言ってるんだから、迷惑じゃない」

少しぶっきらぼうだったが、拒絶ではなかった。
ローズは小さく頭を下げる。

「ありがとうございます」

竹娘は二人のやり取りを見て、口元を緩めた。
兎娘は昔から、優しくする時ほど言葉が乱暴になる。六年たっても、そこは変わらないらしい。

照明が消えると、部屋へ静かな夜が訪れた。
しばらくは、誰も眠らなかった。

暗闇の中で聞こえるのは、空調の音と、時折寝具が擦れる音だけだった。
やがてローズが、小さな声を漏らした。

「……朝になっても、ここにいていいんですよね」

兎娘が答える。

「いるよ」
「今日は、そのまま眠っていいんですか」
「いい」
「目が覚めても、闘技場ではない?」

兎娘は少し間を置いた。

「ここは天宮城だ。扉の外には警備兵がいる。誰も勝手に入ってこない」

はっきりした声だった。

「だから寝な。続きは朝になってから考えればいいじゃん」
「……はい」

しばらくして、ローズの呼吸がゆっくりと整っていった。
隣では、ブリコがいつの間にか竹娘へ寄りかかり、腕へしがみついて眠っていた。
「たけのこさまぁ」
「寝るの早いなあ」

竹娘は小さく笑った。
そっと身体を動かしてみたが、ブリコの腕は離れない。
助かったと理解していても、誰かへ触れていなければ眠れないのかもしれなかった。

竹娘は諦め、毛布をブリコの肩へ掛け直した。
その仕草を見ていた兎娘が、暗闇の向こうから小さく言った。

「お前、昔からそういうところ変わらねえな」
「はて、何がでしょ?」
「言わせんな」

それきり、兎娘も目を閉じた。

竹娘は天井を見上げた。ふと、種男と出会った夜を思い出す。
勝手に部屋着を借り、機材を広げ、しりとりを始めた。最後には、種男の布団へ潜り込んで、そのまま眠ってしまった。

あの時の自分も、今のブリコと似たようなものだったのかもしれない。

「……私も、ずいぶん迷惑だったよね」

暗闇へ小さく漏らす。返事はなかった。

ブリコもローズも、すでに穏やかな寝息を立てている。

兎娘も眠っているように見えた。

ただ、少ししてから、聞こえるか聞こえないかほどの声が返ってきた。

「泊めてくれたなら、迷惑じゃなかっただろうな」

竹娘は兎娘の方を見た。
暗くて表情は分からない。

「起きてたの?」
「寝た」
「大層クリアな寝言ですね」

返事はなかった。今度こそ眠ったらしい。
竹娘は小さく笑い、目を閉じた。

明日には、王室内での情報共有が予定されている。
捕らえた者たちへの尋問や押収情報の解析に加え、救出された人々の今後についてもLPSDと協議しなければならない。

けれど、それは朝になってからでよかった。

今夜は誰も追われない。
誰も見世物にされない。
眠っても、目を覚ますことができる。
救われた命たちの静かな呼吸が、天宮城の夜を満たしていた。

竹娘もその音に包まれながら、ようやく眠りへ落ちていった。

後編に続く

←前の物語へ:「竹取合戦」

→次の物語へ:「後編:Background of Besitiarium」(作成中)

「天ノ川あんぽん譚のあらすじ一覧」へ

「天ノ川あんぽん譚」トップページ へ

Copyright © しんじん-Hobby(2.0) All Rights Reserved.
本作品の無断転載・二次利用・AI学習を禁じます。

“本編 第一章 第二節前編『Battle of Besitiarium』” に対して1件のコメントがあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です