本編 第一章 第一節『竹取合戦』

遥か昔――“文明破壊・救済を自作自演して英雄になったクソ野郎ども”が裏から歴史をこねくり回してきた。
それから数千年……宇宙は見た目こそ平和だが、裏では相変わらず誰かが何かを企んでいる。

これは、そんな世界で父の死の真相を追う少女が、料理店の少年との出会いをきっかけに、世界を覆う巨大な嘘へ近づいていく物語である。

恋をしたり。
ご飯を食べたり。
馬鹿をやったり。
誰かを救ったり。
たまには、笑って済ませられない夜を越えたりしながら。

……多分。

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 本編 第一章「昔醒の兆し編」
    第一節『竹取合戦』

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第一幕 竹林に降る星

第一項 Boy Meets Girl

白銀歴1204年11月1日(土) 22:16
惑星テラ=プレアデス テラ連合圏 島国ヒノモト 京都府
料理店《なよ竹》横の竹林 上空一キロメートル

月京 竹娘(つきのみや たけのこ)は操縦桿を握りしめ、深くため息をついた。
警告灯が赤く明滅している。操縦桿を引いても、宇宙船の落下角度はほとんど変わらなかった。
「……運転してみて気づいたけど、オーバーホールの時に減速機能不全を潰し忘れたみたい」
眼下では、夜の竹林が凄まじい速さで迫ってくる。
「参ったね、どうも(ノ∀`) 垂直落下して大破しないことに賭けよう」

数秒後、宇宙船は墜落に近い角度で地面へ突っ込んだ。
竹林を揺らす轟音とともに、土煙が高く舞い上がる。機体は地面を削りながら進み、ようやく停止した
ひしゃげたハッチを内側から押し開け、竹娘は煙の中を這い出した。
「げほっ、げほっ……し、死ぬかと思った……」

すぐ目の前に、少年が尻もちをついていた。
手には鎌を握り、足元には筍の入った籠が転がっている。

少年の背後には、半透明の龍が浮かんでいた。
竹娘は目を細めた。
淡い光をまとった長い身体が、少年を守るように周囲を巡っている。幻影にしては存在感があり、生物にしては輪郭が曖昧だった。

「ごほっ、ごほっ……し、死んだかと思った……」

二人の視線が合った瞬間、龍は光へ溶けるように消えた。
少年は我に返ったように立ち上がり、服についた土を払う間もなく頭を下げる。

「ぼ、僕、小粒 種男(こつぶ たねお)と申します……! あの、お怪我はございませんか?」

危うく宇宙船に巻き込まれるところだったというのに、最初に竹娘の怪我を心配している。
(なんて親切なこの子なの…この子、ただ者じゃない……
 ……そしてこの子、め、めっちゃかわいいーーー)

竹娘は立ち上がり、土のついた手を服で軽く払った。
「うん、大丈夫。こちらこそ殺しかけてごめんなさい。
 私は竹娘、月京 竹娘。よろしくね、種男くん。」

種男は竹娘を見上げたまま、しばらく瞬きを忘れていた。
(なんて誠実な人なんだ…この人、ただ者じゃない……
 ……そしてこの人、す、すごくキレイーーー)
やがて自分が見つめていることに気づいたらしく、慌てて視線を逸らす。耳が分かりやすく赤くなっていた。

竹娘は種男の反応をひと呼吸だけ見届け、気持ちを龍へと切り替えた。
種男からは神通力を使った形跡が感じられない。何かを隠している余裕があるようにも見えなかった。
ただの少年ではない。少なくとも、竹娘の知る「ただの少年」ではなさそうだった。

「あの……さっきの龍は?」
竹娘が尋ねると、種男の肩が跳ねた。

「えっ……あ、はい。気のせいです。あの……み、見なかったことにして、ください」
竹娘は黙って種男を見つめた。

嘘が苦手なのだろう。視線が分かりやすく泳いでいる。
それでも、神通力を隠している気配はない。本人にも制御できない力なのか。
それとも、竹娘の知らない仕組みで現れたものなのか。

問いを重ねようとした、その時だった。

ぐぎゅるぅびぃ。

竹娘の腹が、竹林の静けさを台無しにするほど大きな音を立てた。

「……あっ」
竹娘は反射的に腹を押さえた。

種男は一瞬目を丸くした。けれど笑いはしなかった。
「あの……お怪我もされているみたいですし、よかったら簡単な手当てと、ご飯はいかがですか?」

そう言って、竹林の隣に建つ古い木造の店を示す。

「料理店《なよ竹》です。僕がやっている店なんです
 あの……お怪我もされてるみたいですし……
 よかったら簡単な手当てと、ご飯、食べていきませんか?
 へ、変なこと……しませんから」
竹娘は店と種男を見比べた。

見知らぬ相手を、事情も確かめず店へ招くらしい。親切というより無防備ではないだろうか。
悪意のある人間に目をつけられれば、簡単に利用されてしまいそうだ。

もっとも、竹娘にとってはありがたい申し出だった。

墜落した宇宙船は、すぐには動かせない。今夜の宿泊先も決めていない。
それに、この少年と先ほどの龍について、もう少し確かめておきたかった。
……決して食事につられたわけではない。

竹娘は姿勢を正し、大げさに敬礼した。

「よろしくお願い申し上げます!」

種男は再び目を丸くしたあと、緊張のほどけた顔で小さく笑った。

第二項 かぐや姫の再来

閉店後の《なよ竹》には、出汁の香りと静かな夜気が漂っていた。

種男に手当てをしてもらった竹娘は、差し出された料理を次々と平らげていった。
普段はどちらかといえば小食だ。
それでも今夜ばかりは、箸が止まらない。
墜落の緊張が解けたからなのか、単純に料理がおいしいからなのか、おそらく両方だった。

最後の一口を飲み込み、竹娘は満足げに息をついた。
「……生き返った。ありがとう。種ピーはヒノモト一、いや、世界一の料理人だね」

「種ピー……?」
種男は困惑したように自分を指さした。

「うん。タメ口でいいよ、種ピー」
「わ、分かりました。努力する……」

種男は照れたように笑い、空になった皿を重ねた。

その時、店内のテレビから聞き覚えのある国名が流れてきた。
画面では、ルナルナ王室のヒノモト来訪が報じられている。
王室の正装が映るたび、種男の視線がテレビと竹娘の羽織を行き来した。

やがて種男は、探るように口を開いた。
「……竹娘さんは、ヒノモトへ何をしに来たの?」

まだ敬語が抜け切っていない。竹娘は箸を置き、にこりと笑った。
「ねえ、種ピー。かぐや姫って知ってる?」

「う、うん。御伽話で読んだことがある。平安京に現れた悪魔の軍勢を倒して、ヒノモトを守った月京家の戦士だよね」

「それ、実話をかなり都合よく歪めた話なんだよ」

竹娘は羽織の胸元を指でつまみ、そこに刻まれた紋章を種男へ見せた。
腰に下げた太刀にも、同じ紋が刻まれている。

「かぐや姫はヒノモトを守った英雄じゃない。実際は、ルナルナによる侵略に加担していた悪党なんだ」

真相ではない。

竹娘が読んだ記録にも、かぐや姫の任務の全容までは残されていなかった。
だからこれは、目の前の少年がどこまで人を信じ、どんな反応を返すのか確かめるための、少し意地の悪い作り話だった。

「それで私は、その血筋と意思を継ぐ者ってわけ」

言い終えたところで、テレビ画面が切り替わった。

《一週間後、ルナルナ王ヒノモト来訪》
《月京家の特使、かぐや姫ゆかりの地へ》

画面には、竹娘の羽織と同じ紋章が大きく映し出されていた。

「えっ……」

種男の顔が固まった。
テレビと竹娘を何度も見比べている。竹娘の冗談を、どうやらそのまま信じてしまったらしい。
予想どおり、疑うことに慣れていない。

竹娘は口元をつり上げた。
「来週が楽しみだね、種ピー」

種男は笑わなかった。
視線を落とし、重ねた皿の端を指で押さえている。

その表情に浮かんだ不安を見て、竹娘の胸に小さな引っかかりが残った。

少し、からかいすぎただろうか。
けれど、今さら冗談だとは言い出しにくい。

竹娘は何事もなかったように湯呑みへ手を伸ばした。

「で、そのついでと言ってはなんだけど……今日、泊めてくれないかな?」

第三項 (最)初(の)夜

「えっ?」
種男の声が裏返った。

竹娘は両手を合わせ、瞳を潤ませてみせる。
「よぅよぅ、今から宿を探すのは大変だろぅ? 種ピーは、行き場のないか弱い女の子を、一人で夜の京都へ放り出したり、しないよなっ?」

自分で言っていて、なかなか強引だと思う。
公務で来ておきながら宿泊先を決めていない。その一点を指摘されるだけで、竹娘の負けだった。

質問されたら、ごまかす。
追及されたら、宇宙船へ戻る。
それでいこう。

種男は困ったように目を泳がせ、二階へ続く階段を振り返った。
「は、はい……。この建物、居抜きでして、二階が僕の住居なんです」

どうやら勝ったらしい。
竹娘は飛び上がりたい気持ちを抑え、厳粛な顔で頭を下げた。

「ご厚意、痛み入ります」

しかし、声の弾みまでは隠せていなかった。

第二幕 星影の策謀

白銀歴1204年11月1日(土) 23:00
惑星テラ=プレアデス テラ連合圏 島国ヒノモト 静岡県
不死山麓 株式会社夕星重機製作所 マザー工場内・秘密司令室

株式会社夕星重機製作所。

表向きは、従業員五十名、年間売上五十億円規模の地元優良重機メーカーである。

しかし、マザー工場の奥には、会社概要にも工場案内にも載っていない鋼鉄の扉があった。
重い軋みを響かせて扉が開き、薄暗い司令室に灯りがともる。
壁一面のモニターには、宇宙航路、軍事衛星、各国のニュース映像が所狭しと並んでいた。

この部屋こそ、今どき本気で「世界征服」を目指す自称悪人と、その部下二名が拠点とする秘密基地だった。

「一週間後……よりにもよって、あのルナルナ王が、オレ様の領土へ来るだと?」

中央の椅子に腰掛けた男が、頭を抱えた。
鋭い眼差しに、逆立った髪。長いコートの上からマントまで羽織った、やけに華々しい装いである。
身長は百四十五センチほど。小柄な体格とは対照的に、その態度だけは司令室の誰よりも大きかった。

男の名は、夕星 可染(ゆうつづ かぜん)。

見た目こそ青年だが、平安時代から千二百年以上を生き続ける不老不死の存在である。

その隣では、秘書の珠村 鬼乃子(たまむら きのこ)が無言で溜息をついた。銀髪の間から伸びる黄金の角が、モニターの光を鈍く反射する。

(あなたの領土ではございません。そもそも固定資産税も払ってません。)
可染が「オレ様の領土」と呼んだ土地について、鬼乃子は言葉にして訂正をしなかった。
今それを指摘すれば、話が余計に長くなるだけと分かっていたからだ。

白と濃紺を基調とした衣装にも、その立ち姿にも乱れはない。
上司がどれほど取り乱しても、鬼乃子まで付き合う義理はなかった。

その代わり、司令室の隅では、丸眼鏡をかけた白髪の老研究者が目に見えて震えていた。
「か、閣下……想定外の事態です。ルナルナの特使だけが、すでにヒノモト入りを……」

アオオニの研究者、調 石笠(つきの いわかさ)は、実験器具を握ったまま中央モニターを指した。

画面には、煙を上げる宇宙船と、ひしゃげたハッチから這い出してくる少女の姿が映っている。

可染は椅子から跳ね起きた。
「はぁぁ!? なんで勝手に来てんだよ! 許可は!? 手土産は!? 行き先はどこだ!」

ヒノモトへの入国許可なら、当然取得しているはずである。一方、ルナルナ特使が可染へ手土産を用意する理由は、どこにもなかった。
鬼乃子は何も言わず、石笠へ視線を送った。説明を急がなければ、可染の質問はさらに増える。

「京都府です。料理店《なよ竹》へ向かったようで……」

可染の顔色が変わった。
「み、深雪ちゃんの店!?」

中央モニターへ詰め寄り、画面に映る竹娘を指さす。
「やばい! 絶対、アレを奪いに来たんだ!」

「アレとは、何でしょうか?」

鬼乃子が尋ねると、可染は口元へ手を当てた。
「アレはアレだ! 丸くて、五色に光っていて……いや、違ったか? もっとこう、細長かったような……」
「覚えていらっしゃらないのですね」
「大事なものだってことは覚えてる!」

鬼乃子と石笠は、そろって口を閉ざした。
大事だということ以外、何も覚えていないらしい。

可染はしばらく宙を睨んでいたが、やがて考えることを放棄したようにマントを翻した。
「まあいい! とにかく明日、《なよ竹》へ向かうぞ!」
「ルナルナ特使の目的を確認するためですか?」
「それもある!」

可染は胸を張った。
「腹も減ったし、深雪ちゃんにも久しぶりに会いたい!」

今度は、鬼乃子だけでなく石笠も目を伏せた。
大伴深雪は、すでに亡くなっている。
可染が「久しぶり」と言っている間に三回忌も終わり、現在は深雪の養子だった少年が《なよ竹》を継いでいた。
その事実は、これまでにも何度となく可染へ説明されている。

鬼乃子は何か言いかけたが、結局、端末を開くだけに留めた。

「鬼乃子、どうした?」
「いいえ。明日の予定を確認していただけです」

鬼乃子は《なよ竹》への訪問予定を追加した。

可染の記憶が長すぎる人生によって損なわれたのか、それとも単に人の話を聞かないだけなのか。
その答えを知る者は、この司令室にはいなかった。

もっとも、鬼乃子にも訪問へ反対する理由はない。
「私も同行いたします」
「おう! やっぱりお前も特使が気になるか!」

鬼乃子は、肯定も否定もせず微笑んだ。
《なよ竹》の料理が絶品であることまで、わざわざ説明する必要はなかった。

第三幕 なよ竹の一週間

第一項 にぎやかな食堂

翌日。
白銀歴1204年11月2日(日) 07:21

「ほぼ一睡もできなかった……」

開店準備をしながら、種男は昨晩の出来事を思い返していた。

「僕の服を着て、惜しげもなく腹と脚を露出させてる竹娘さん」
「謎の機材を僕の部屋で広げて何かやってる竹娘さん」
「唐突に ”しりとり” しよう って言ってきた竹娘さん」
「僕の布団に後から平気で入ってきた竹娘さん」
「僕を抱き枕にして寝始める竹娘さ――」

顔を覆って悶絶していると、店の扉が勢いよく開いた。

「おるぅぁ、女男! 唐揚げ定食特盛と、チキン南蛮単品と、煮卵六個! さっさと持ってこい!」

ラッパーのような衣装をまとった少年、五十守麻呂(いそがみ まろ)が、店の中央で仁王立ちしていた。
見た目だけなら十分に威圧的である。しかし、その大仰な態度の大半は、仲間の前で兄貴分らしく振る舞おうとする少年なりの背伸びだった。
その背伸びが、たいてい騒動の火種になる。

麻呂の後ろには、改造学生服を着た倉持桜司(くらもち おうじ)が立っていた。
外見だけなら麻呂以上に物騒だったが、桜司は店へ入るなり、申し訳なさそうに種男へ片手を上げた。

「おい、落ち着けって。お前の誤解だったんだろ」
麻呂の暴走を止め、後始末を引き受ける。今回も、いつもの役割から逃れられそうになかった。

ところが、麻呂は竹娘の姿に気づくと、急に動きを止めた。
「うはっ、Oh,ゴッデス! そ、そいつは……ちゃんと”女”なんだろうなぁ。」

“経験”のある女性のことを、『女』と呼ぶ──
未成年向け官能小説でそんなエピソードを見ていた竹娘は、自分を指さし適当に答えた。
「処女です」

「っは!!?」
麻呂の口が半開きになった。何か気の利いた返しを求められていたのだろうか。
どうやら、彼が知りたかった答えではなかったらしい。

しかし、竹娘には質問の意図が分からない。

桜司は額を押さえ、種男は厨房で気まずそうに鍋へ視線を落とした。
店内を短い沈黙が通り過ぎる。

だが、麻呂はそれ以上追及しなかった。
席へ着くなり、運ばれてきた料理を凄まじい勢いで平らげ始める。

唐揚げ定食特盛、チキン南蛮、煮卵六個。
山のように積まれていた料理は、見る見るうちに消えていった。
やがて最後の煮卵を丸飲みした麻呂は、レジへ紙幣と硬貨を叩きつけた。

「お釣りはっ、要らねえぇええ!」
種男は代金を数え、困ったように眉を下げた。

「うぅ。ぴったんこカンカン。お釣り、ございません……」
麻呂は一瞬だけ固まった。
しかし、そのまま何事もなかったように踵を返し、勢いよく店を出ていく。

桜司は種男へもう一度だけ謝るように頭を下げ、麻呂の後を追った。
扉が閉まり、店内に静けさが戻る。

竹娘は、二人が消えた入口を見つめた。
「……あの人たち、怖。お友達…じゃないよね?」

「いつの間にか嫌われてて……」
種男は肩を落とした。

本人にも原因が分かっていないらしい。
竹娘が詳しく尋ねようとした、その時だった。

店の扉が、先ほどよりも遥かに乱暴に開いた。
「月京ぁあぁあ! クソガキぃぃぃ! このクソ仲良しどもめぇぇぇ!」

甲高い怒号とともに、夕星可染が長いマントを翻して飛び込んできた。
「深雪ちゃんの店を、大伴の”魂”を、奪いやがったな!」

ずいぶん騒がしい人物が来た。そう片づけかけたところで、竹娘には聞き捨てならない名前が耳に残る。

大伴。

かぐや姫が降下した竹林を、千二百年にわたって守ってきたとされる家の名である。
その名が、なぜ種男の店を巡る話に出てくるのか。

「えっ!? 夕星さん、違います!」
種男が慌てて厨房から出てきた。

「深雪さんは亡くなったって、前にも説明しましたよね? 僕が店を継いだんです!」
種男の反応を見る限り、可染の来訪も、同じ説明を繰り返すことも初めてではないらしい。

「黙れい! この俺様の記憶に誤りなどあろうはずがないわ!」

可染に続いて、二人の人物が店へ入ってきた。
銀髪から黄金の角を伸ばした珠村鬼乃子と、丸眼鏡をかけた白髪の老研究者、調石笠である。

鬼乃子は深いため息をつき、石笠は申し訳なさそうに肩をすぼめた。
二人の反応から察するに、種男の説明が正しいのだろう。そして可染が同じ間違いを繰り返すことにも、すっかり慣れているようだった。

竹娘は、種男と可染を交互に見た。
「ところで、クソ仲良しというのは、私たちのことですか?」

「それは二分前の俺に聞け!」
可染は勢いよく竹娘を指さした。

竹娘が隣を見ると、種男も同じタイミングで彼女を見た。
二人の視線が重なる。種男は、なぜか慌てて顔を逸らした。

「昨日会ったばかりですけど」
「その距離感が怪しい! 似た者同士の香りがプンプン匂うぜぇ!」

何が怪しいのか、竹娘にはよく分からない。
鬼乃子にも分からなかったらしい。こめかみを押さえ、可染の肩へ手を置いた。

「可染様。深雪さんはすでに亡くなっています。現在は小粒さんが《なよ竹》を継いでいらっしゃいます」

鬼乃子はいったん言葉を切った。
「昨日も、一昨日も、その前にも、同じ説明をいたしました」

可染は目を丸くした。
「……?」

「初めて聞いたような顔はおやめください」

可染は腕を組み、難しい顔で考え込んだ。
何度も説明されたことを、本当に覚えていないのかもしれない。

鬼乃子と石笠は口を挟まず、その様子を見守っている。
どうやら二人にも、可染の記憶がどこまで確かなのか判断できないようだった。

やがて可染は、考えることそのものを諦めたらしい。
空いている席へ勝手に腰を下ろす。
「まあいい! 話は食ってからだ! 小粒、今日の日替わり定食を持ってこい!」

種男は戸惑いながらも、すぐに厨房へ戻った。
竹娘は、席に着いた可染と同行者たちを眺める。
大伴家の名を知り、深雪とも面識があったらしい。それなのに、彼女の死も、種男が店を継いだことも覚えていない。

単なる物忘れなのか。それとも、記憶そのものに何らかの問題を抱えているのか。
今のところ、判断できる材料はなかった。

ただ、料理を待つ可染が、先ほどまでとは打って変わって楽しそうなのは確かだった。
結局、可染は最後まで不満を並べながら、出された料理をきれいに平らげた。
食後には代金も不足なく支払い、満足げに立ち上がる。

「次に来るまで、レシピは残しておけ! それから自首しろ!」
何について自首すればよいのかは、最後まで説明されなかった。

石笠は、空になった器を名残惜しそうに見つめている。
「あなたの料理は、良質な化学変化の極みです。また検証させてください」

「よろしくお願いいたします。」
この状況でも種男は楽しそうだ。

最後に、鬼乃子がレジの前で丁寧に頭を下げる。
「小粒さん、今回も申し訳ありませんでした。今後も伺いたいので、出入り禁止だけはご容赦ください
 可染様は…善処いたします」

約束までは出来なかったようだ。
鬼乃子は可染と石笠を連れ、店を出ていった。

静けさを取り戻した店内で、竹娘は時計を見上げた。

「種ピーの知り合い、面白い人たちばかりだね」
「仲良さそうで羨ましいです……」

「それよりさ」
竹娘は入口の札を指さした。まだ《準備中》のままだ。

「開店時間、まだだよね?」

第二項 継がれし店

白銀歴1204年11月2日(日) 22:10

京都府内に点在する伝承の地をいくつか調べたものの、悪魔のカケラらしき反応は見つからなかった。
空振りに終わった竹娘は、その日の夜も《なよ竹》へ戻ってきた。

夕食までごちそうになってしまったため、せめてもの礼に皿洗いを申し出た。そうして厨房の片づけを終え、竹娘は店内へ戻った。

閉店後の《なよ竹》には、湯気の名残と出汁の香りが漂っていた。

いい匂いだった。
竹娘にできる料理といえば、食材を焼いて塩を振る程度である。それを料理と呼んでよいのかは、少し怪しい。

静まり返った店内で、ひとつだけ動かないものがあった。

――種男だった。

テーブルに突っ伏し、腕を枕にして眠っている。
頬にかかった前髪が、穏やかな寝息に合わせてかすかに揺れていた。

昨日から店の仕事に加え、見知らぬ竹娘の世話までしている。疲れて当然だった。
竹娘は足音を忍ばせて近づき、種男の肩へブランケットを掛けた。

「……お疲れ、種ピー」

返事はない。

種男は《なよ竹》を一人で切り盛りしている。
ヒノモトでは十五歳から成人として扱われ、所定の審査を通れば、未成年でも飲食店を経営できる。
教育や生活を支える公的な制度も整っているらしい。

制度上は可能ということだ。

けれど、それだけでは説明できない気がした。
店に立つ種男は、料理を作っている時だけ少し違って見える。普段の頼りなさが消え、手つきにも声にも迷いがなくなる。

この店を守ることが、種男の生活そのものを支えている。
竹娘には、そう見えた。

それなら、種男はなぜここまで必死になれるのだろう。
ふと浮かんだ疑問に、別の考えが重なった。

大伴家。

昨日、夕星可染が口にした名だった。

かぐや姫を匿った老夫婦の土地を買い取り、その竹林を千二百年にわたって守ってきたとされる家。
その末代が大伴深雪であり、現在は種男が土地と店を継いでいる。

偶然と片づけるには、つながりが多すぎる。

竹娘は眠る種男へ視線を戻した。

本人へ直接聞けばよい。
そう思う一方で、種男が何も知らない可能性もあった。知っていたとしても、会ったばかりの竹娘へ話してくれるとは限らない。
それでも、手掛かりがこの建物に残されている可能性はある。

竹娘は眠っている種男を起こさないよう、静かに店内を見回した。
厨房。倉庫。裏口。
どこも丁寧に整えられている。怪しい装置や、悪魔のカケラらしき反応はなかった。

階段へ目を向ける。その先には、昨日泊めてもらった二階の住居がある。

少し見るだけ。
何も触らなければいい。
竹娘は自分にそう言い聞かせ、足音を殺して階段を上った。

古い木の匂いが漂う、薄暗い廊下。
種男の部屋を通り過ぎると、壁に色褪せた写真がいくつも飾られていた。

そのうちの一枚に、竹娘の足が止まった。
幼い種男と、年配の女性が並んでいる。

女性は種男の肩へ手を置き、穏やかに笑っていた。
この人が、大伴深雪なのだろうか。

竹娘は写真を見つめた。

千二百年前、ルナルナ政府は五つの分類不能物質を得るため、かぐや姫を囮にして別働隊をヒノモトへ送り込んだ。
回収された三つは、悪魔のカケラと特徴が一致している。その三つは政府の管理下へ移された後、何者かに引き渡された。
残る二つは未回収。

しかも、その二つに関する記録だけが意図的に破棄されていた。

かぐや姫の宇宙船が降下した地点は、《なよ竹》に隣接する竹林だった。

かぐや姫を匿った老夫婦の土地を、後に関係者が買い取り、それを大伴家が守り続けた。
そして最後に土地を継いだ深雪が、身元の分からない種男を育てた。

さらに種男は、竹娘にも解析できない龍を顕現させる。

一つ一つなら、偶然で済ませられる。
しかし、これだけ重なると話は別だった。

大伴家は、ここで何かを守っていたのではないか。
未回収の二つのうち、少なくとも一つが、この土地か《なよ竹》に関係しているのではないか。

そこまで考えたところで、竹娘は息を止めた。

自分は今、種男を手掛かりの一つとして見ている。
墜落した自分を助け、食事を作り、泊めてくれた相手を。

写真を見つめているうちに、胸の奥へ小さな痛みが差し込んだ。

「……やっぱり、駄目だよね。こんなことしちゃ」

竹娘は写真から手を離した。

自分の目的のために、種男の過去を勝手に調べようとしていた。
彼の親切に甘え、家へ入り込み、本人のいないところで秘密を探している。

宇宙海賊としてなら、ためらう必要のない行為だった。
真相へ近づくためなら、他人の境界を越えることにも慣れている。

けれど、今は違った。
少なくとも、種男に対して同じことをしたくはなかった。

竹娘は写真を元の位置へ戻した。
「……明日、直接聞こう」
種男が話したくないなら、それ以上は踏み込まない。

それで手掛かりを失うとしても、本人の知らないところで探るよりはいい。
「お店が終わったら、ちゃんと私の口から」
竹娘はもう一度だけ写真を見つめ、廊下を引き返した。

階段を下りると、種男は先ほどと同じ姿勢で眠っていた。

竹娘はその少し離れた床へ腰を下ろす。
本人へ許可を取っていない以上、勝手に二階の部屋を使うわけにはいかない。

もっとも、屋根と壁があるだけで十分である。少なくとも、墜落した宇宙船よりは快適だろう。
竹娘は床へ横になり、眠っている種男へ背を向けた。

「……私も、ここで寝るね」

第三項 居候志願

白銀歴1204年11月3日(月) 06:30 竹娘起床――

竹娘は、見覚えのある天井を見上げていた。
柔らかな敷布団。身体に掛けられた毛布。そして、すぐ隣から聞こえる小さな物音。

寝ぼけた頭が、昨夜の記憶をゆっくり拾い集めていく。
閉店後の店内。テーブルで眠っていた種男。二階の廊下に飾られた写真。そして、自分は店の床へ横になったはずだった。

そこまで思い出し、竹娘は勢いよく上体を起こした。

今いるのは、種男の部屋だった。しかも、彼の布団の中である。
どうやら床で眠っていたところを、ここまで運ばれたらしい。まったく気づかなかった。

昨夜もそうだった。
追跡者の足音どころか、自分の身体を運ぶ気配にさえ目を覚まさない。そんな深い眠りに落ちたのは、何年ぶりだろう。

「おはようございます」
声の方を見ると、種男が少し離れたところに座っていた。

「店の床で寝ていたので、びっくりしました。宿泊先も分からなかったし、連絡する相手も分からなくて……勝手に運んで、ごめんなさい」

謝るべきなのは、どう考えても自分の方だった。
竹娘は布団から飛び出すと、種男の言葉を遮るように床へ両手をついた。

「泊めてください!」

そのまま額を畳へ近づける。
「一週間ほど! 国王陛下より先に、お忍びでヒノモト入りしたのに、宿を取るのを忘れていました!」

口に出してみると、我ながら驚くほど計画性がない。
王室特使が、滞在先も決めずに異星へ来た。事情を知らない者が聞けば、冗談か身分詐称を疑うだろう。

けれど、昨日の料理も、屋根のある寝床も、何年ぶりか分からないほど深く眠れたことも、簡単には手放しがたかった。
何より、種男と、あの龍のことが気になる。少なくとも、今はそういうことにしておこう。

「わっ、土下座なんてやめてください!」
種男は慌てて竹娘の前へしゃがみ込んだ。

「その……僕からも、お願いします。ここにいてください」
言い終えた種男自身が、驚いたように目を瞬かせる。

竹娘も顔を上げた。
「……いいの?」

「はい。部屋は余っていますし、一人増えても困りませんから」
種男はそこで少し言いよどみ、竹娘の顔を確かめるように見た。

「でも、竹娘さんが王族というのは……本当なんですか? もしかして、何かのドッキリだったりします?」

疑われるのも無理はない。
昨夜の説明といい、墜落の仕方といい、信用される要素を探す方が難しい。

竹娘は姿勢を戻し、照れ隠しに髪をかいた。
「王族ではないよ。もともとね」

月京竹娘という名前も、かぐや姫の末裔という肩書も、王室から与えられたものだった。
どこまで説明すべきか迷ったが、今は最低限でよいだろう。

「王室に所属しているのは本当。一応、近衛騎士」

「近衛騎士……」
種男は竹娘の顔を見つめた。

昨夜よりも疑いが増したように見えなくもない。
竹娘は胸元へ手を当て、できる限り威厳のある表情を作った。

「これでも正式採用です。まだ仮任用だけど」
「仮…なんですね」
「うん。でも、このままクビになっちゃうかも」

種男の表情がわずかに緩んだ。

拒まれてはいない。
それどころか、ここにいてよいと言ってもらえた。

竹娘は顔へ出そうになった喜びを抑え、改めて頭を下げた。
「ありがとう、種ピー。一週間、よろしくね」

7:00 朝食準備――

種男は朝から、何やら自信ありげに笑っていた。
「滋賀県の御環湖(みわこ)から、と~っても美味しい鮭、ミワマスが入ったんです。塩焼きでいただきましょう。」

「あ、ありがとう、種ピー」

塩焼き。
つまり、焼いて塩を振る料理である。

それなら竹娘にも経験があった。どうやら自分も、これまで一応は料理をしていたらしい。
ほんの少しだけ自信を取り戻した、その直後だった。

種男がまな板の前へ立つ。それまでの柔らかな笑顔が消え、表情がすっと引き締まった。
銀青色の光を帯びたミワマスへ、包丁が静かに入る。
刃は水を払うようになめらかに滑り、骨の際を通るたび、しゃり、と小さな音を立てた。
迷いのない手つきだった。
身を傷つけることも、骨へ余分な肉を残すこともない。
魚の形を知り尽くしているかのように包丁が走り、ミワマスは瞬く間に三枚へおろされていく。

竹娘のささやかな自信は、十秒も持たなかった。
「……うわ」

種男は切り身の形を整え、表面へ均等に塩を振った。それから仕事の区切りをつけるように、軽く息を吐く。
「はい。あとは焼くだけです。竹娘さんの好きな焼き加減にしますね」

急に話を振られ、竹娘は反射的に答えた。
「レア!」

種男の手が止まった。
「……レア、ですか?」

その問い返しだけで、何かを間違えたことは分かった。
「だ、駄目?」

「気持ちは受け取りました」

どうやら駄目らしい。

種男は困ったように笑い、切り身を焼き台へ並べた。

「外は香ばしく、中はふっくらするくらいがおすすめです。それでいいですか?」
「お任せいたします、料理長」
「はい、お任せください」

焼き台から、ほどなく香ばしい匂いが立ち始めた。
想像していた以上に朝食が楽しみになっている自分に気づき、竹娘は少し落ち着かなくなった。

食事を作ってもらい、寝床まで借りている。
いくら種男が気にしなくてよいと言っても、さすがに甘えすぎではないだろうか。

「あのさ、種ピー」
「はい?」
「タダ飯にタダ宿っていうのも、そろそろ気が引けてきまして……」

妙に改まった言い方になった。竹娘は咳払いを一つ挟む。
「何か、お手伝いをさせていただけませんでしょうか」

種男は焼き台から竹娘へ目を移した。
「気にしないでください。竹娘さん、日中は何か調べているんですよね?」

竹娘は一瞬だけ言葉に詰まった。
何を調べているのか、種男にはほとんど話していない。それでも、毎日出掛ける様子から察していたらしい。

「僕には話せないことなんでしょうし、そちらを優先してください」

踏み込まないのか。詳しく聞こうともしない種男の態度に、竹娘は少しだけ戸惑った。
ありがたい。けれど、何も疑わず受け入れられると、それはそれで心配になる。
「うん。でも、それとこれとは別というか……」

「それなら、買い出しに付き合ってもらえませんか?」
種男は少し考えてから、そう付け加えた。
「仕入れる食材によって、朝早かったり、夕方だったりしますけど」

(それ、実質私……何も手伝ってないけど。)
買い出しに同行する。店の手伝いとしては、ずいぶん竹娘に都合のよい提案だった。
荷物を運ぶ程度なら簡単だ。ヒノモトの食材や街も見られる。
何より、種男と一緒に過ごす理由にもなる。

「荷物持ちなら得意!」
竹娘が明るく答えると、種男はくすりと笑った。
「ひしゃげたハッチをこじ開けられるくらいですもんね」

焼き台の上で、ミワマスの皮が小さな音を立てた。
朝食を待つ時間も、種男と買い出しへ行く予定も、思いのほか楽しみになっていた。

第四項 前哨戦

11:00 開店――

《なよ竹》の暖簾を揺らし、昨日と同じ甲高い声が飛び込んできた。

「おい、小粒! 今日も監視に来てやったぞ!」
夕星可染が、長いマントを大げさに翻しながら入ってきた

監視とは名目である。
本当の目的が《なよ竹》の料理であることは、可染以外の全員がほぼ正確に理解していた。

種男は味噌汁をよそっていた手を止め、にこやかに振り返る。
「今日も来てくださって、ありがとうございます。でも、確かお住まいは静岡でしたよね?」

遠路を連日通っていることへの皮肉ではない。種男は純粋に、移動手段が気になっただけだった。

「ふふふ……聞いて驚け、小粒よ!」
可染は胸を張り、得意げに天井を指さした。

「この建物の上に、光学迷彩を施した飛行船を停泊させている! それを使えば、静岡からでも十分で着く!
 どうだ、すごいだろう!」

「すごいですね!」
種男は素直に目を輝かせた。

疑うことを知らない反応に、可染はますます胸を反らす。

「そういえば、以前お連れの方が話していましたよね」
種男は味噌汁の柄杓を置き、記憶をたどった。

「鍛造したA7075アルミブロックの削り出しでも、高速回転でも絶対に羽折れしないタービンを作れるって。
 もしかして、その飛行船に使われているんですか?」

可染の得意顔が止まった。
「え? し、知らん。」
石笠がいないせいか、可染は一瞬で目をそらした。その背後で、鬼乃子が額に手を当てている。
飛行船の性能を自慢しておきながら、仕組みは何一つ理解していない。いつものことである。

一方、調査へ出掛けようとしていた竹娘は、肩に荷物を掛けたまま足を止めていた。
流体力学に関心のある彼女にとって、聞き流すには惜しい話題だった。詳しいらしい研究者が不在なのが、何とも残念である。

それにしても、と竹娘は種男を見る。

種男は料理店を一人で切り盛りしながら、相手にあわせて金属や高速回転機構の話題を振る。
どこで学んだのだろう。

竹娘は、ふと自分の幼少期を思い出す。
惑星トトのサピエンティア研究施設、ビルスタット居住区、そしてネザーランド家の道場――
好きなだけ学問と武芸に触れることが出来た日々。
自然に、楽しく、知識も腕っぷしも身についていった。

その記憶を、宇宙海賊として荒れ果てた国や地域を何度も見てきた経験と重ねて振り返る。
”あの時”までは、本当に恵まれた環境にいたのだと。

だが、種男は違う。
彼は誰かに環境を用意してもらったのではなく、自分で必要な知識を身につけてきたのかもしれない。

竹娘が考え込んでいることに、可染が気づいた。
もっとも、彼女の感慨が自分とは一切関係ないことまで、可染は知らなかった。

可染は条件反射のように悪態を放った。
「よぉ、ニセ月京
 俺の目を欺けると思うなよ。おまえの影が少しでも怪しく動いたら、即・殲滅モードだからな!」

竹娘の思考が加速した。

ニセ月京。

単なる罵倒なら聞き流せる。だが、竹娘が本当は月京家の出身ではないことを知っているようにも聞こえた。

可染の素性は分からない。
粗暴で、やかましく、記憶にも少々問題がある。しかし、ただ失礼なだけの男ではないらしい。

ならば、少し刺激して反応を見る価値はあった。
竹娘はまばたきもせず、可染を見つめる。

「いわれなき侮辱です」
丁寧に前置きしてから、狙いを定めた。

「背の小ささに反比例して、態度が大きくなりすぎているのでは?」

「んなっ! なん…だと(# ゚Д゚)」

効果は絶大だった。

可染が噛みつくように一歩踏み出した瞬間、鬼乃子が二人の間へ滑り込んだ。
竹娘を警戒したというより、可染が余計なことを言う前に止めたのである。

「あなたこそ侮辱――いえ、低身長の方への差別的発言をお控えください」

鬼乃子の至極もっともな注意に、可染は一瞬だけ勝ち誇った。
しかし、その時間は長く続かなかった。

「彼の態度の大きさや、失礼すぎる言動の数々は、身長とは何の関係もございません

 あくまで、本人の極めて矮小な人格に由来するものです」

竹娘と鬼乃子はしばし沈黙し、周囲には火花を散らしたように見えたが、
当人たちはむしろ落ち着いた顔で微笑み合い、そのまま自然に握手を交わした。

「おぃ!! フォローじゃないんかい!(# ゚Д゚) その握手どういう意味!?(´;ω;`)」
可染だけが、成立したばかりの友好関係から完全に取り残されていた。

その傍らでは、種男は味噌汁の柄杓を持ったまま右往左往し、半ばパニックになっていた。

二人を止めるべきか。鬼乃子へ礼を言うべきか。
それとも、味噌汁を火から下ろすべきか。

種男が結論を出すより先に、可染と目が合った。
「おい、小粒! 昨日の日替わり定食を頼むぞ!」
行き場を失った怒りが、最も反撃しなさそうな相手へ向かった。

種男は困ったように眉を下げた。
「き、昨日のですか?
 申し訳ありません。今日は同じ具材がなくて……」

(……可染様。ヒノモト語ができても、会話が成立していません。)
鬼乃子は深く息を吐き、可染の代わりに注文を決めた。
「本日の日替わり定食をお願いします。」

「はい。ありがとうございます」
種男は、ようやく意味の通じる注文を受けて厨房へ戻った。
その一言には、注文への感謝と、救われたことへの感謝が、ひっそりと二重に折りたたまれていた。

その隙に、竹娘は暖簾へ手を掛ける。
可染が自分を「ニセ月京」と呼んだ理由は気になる。だが、今ここで問い詰めたところで、まともな答えが返ってくる可能性は皆無に思えた。
「それじゃ、行ってきマンモスー!」
竹娘は三人の騒ぎを背に、軽やかに店を出ていった。

種男は厨房から顔を出し、去っていく背中を見送る。
「行ってらっしゃい」
その声が竹娘に届いたかどうかは分からない。

鬼乃子は種男と暖簾を交互に見た。
(……小粒さん、ルナルナ特使。微笑ましい間柄であって欲しいです、なんか……)

第五項 みゆき

20:00 閉店――

閉店後の《なよ竹》は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

厨房の片づけを終えた竹娘は、店内のテーブルへ戻った。
向かい側では、種男が湯呑みを両手で包んでいる。
立ち上る湯気の向こうに見える顔には、一日の疲れがにじんでいた。

竹娘も席へ着き、同じように湯呑みを持った。昨日から、どうしても気になっていることがある。

夕星可染が口にした「大伴」という名前。
本人へ直接尋ねると決めたのは、自分だった。

それなのに、いざ向かい合うと、切り出す言葉が妙に重い。
竹娘は湯呑みの縁を指でなぞり、意を決して顔を上げた。

「ねえ、種ピー」
「はい?」
「夕星さんが言ってた、大伴っていうのは……種ピーの家のこと?」

種男は少し驚いたように目を瞬かせた。それから、ゆっくりと首を横に振る。
「えと……僕、自分の家族のこと、何も知らないんだ」
「……え?」

種男は湯呑みをそっとテーブルへ置いた。
落とさないように扱っているはずなのに、その指先はどこか頼りなかった。

「どこで生まれたのかも、誰が親なのかも分からない。
 物心がついた時には、もう深雪さんが僕を育ててくれてたんだ」

深雪。

二階の廊下に飾られていた写真の女性が、竹娘の脳裏に浮かんだ。
幼い種男の肩へ手を置き、穏やかに笑っていた年配の女性。
あの人が、大伴深雪だったのだろう。

大伴家最後の人物であり、この土地と店を種男へ残した人。

竹娘の疑問へ答える手掛かりは、確かにここにあった。
だが、種男の表情を見た瞬間、それ以上の質問は喉の奥で止まった。

「深雪さんは、僕が物心ついた頃には……もう余命数か月だって言われてたんだ」

種男の声は静かだった。
「でも、そこから何年も一緒に暮らせた。僕にとっては、本当のおばあちゃんみたいな人だった」

竹娘は返す言葉を失った。
種男は淡々と話している。
だからこそ、その言葉がどれほど長く胸の中へしまわれていたのか、竹娘にも少しだけ分かる気がした。

父の死を語る時、自分も同じだった。
声を乱せば、二度と立てなくなるような気がしていた。
だから何でもない事実のように並べて、どうにか最後まで話そうとした。

種男も、そうなのかもしれない。
学校へ通う代わりに、深雪を支えていたのだろうか。

店の仕事を覚えたのも、料理を学んだのも、限られた時間の中で彼女を安心させるためだったのかもしれない。
どれも竹娘の想像にすぎない。
今ここで尋ねるべきことではなかった。

「深雪さんが亡くなって、それから僕が店を継いだんだ」

種男は店内を見回した。
「深雪さんは、この土地をとても大切にしてたし、僕も料理が好きだったから」

この土地。
その言葉が、竹娘の胸へ引っかかった。

大伴家が守り続けた竹林。消された未回収物の記録。種男の出生。
そして、あの龍。

聞きたいことはいくつもあった。

なぜ深雪はこの土地を大切にしていたのか。
種男へ何を伝え、何を残したのか。
種男自身は、あの龍についてどこまで知っているのか。

けれど、竹娘はその疑問を飲み込んだ。

今の種男は、調査対象ではない。
大切な人のことを、竹娘へ話してくれている一人の少年だった。

「……そっか」

竹娘は湯呑みを置いた。気の利いた慰めを探したが、どれもしっくりこなかった。

自分が父を失った時に聞きたくなかった言葉ばかり、次々と浮かんでは消えていく。
だから、無理に慰めるのはやめた。

「深雪さん、大切な人だったんだね」

種男は小さく笑った。
寂しさを隠すための笑顔なのか、それとも本当に温かな思い出を見ているのか。竹娘には判断できなかった。

「はい。僕に、全部をくれた人です」

その短い言葉だけで十分だった。
竹娘は、種男のために何かできないかと考えた。

真相を調べることならできる。
大伴家と竹林の歴史をたどり、深雪が守っていたものを突き止められるかもしれない。

けれど、それは種男へ近づくための口実にもなり得る。
彼の知らないところで過去を暴き、本人が望んでいない秘密まで突きつけることが、
本当に種男のためになるのか。

父の真相を追う自分には、その怖さがよく分かった。
知らなければ前へ進めないことがある一方で、知った瞬間に元へは戻れなくなることもある。

竹娘は、すぐに答えを出すのをやめた。
少なくとも、《なよ竹》から悪魔のカケラに似た反応は感じられない。
旧ルナルナ政府が重要視するほどのカケラなら、ここまで近づいて何も分からないとは考えにくかった。

調査として見れば、今回は空振りなのかもしれない。
それでも、最初に見た龍だけは説明がつかなかった。
既知の魔力とも違う。神通力のどの系統にも当てはまらない。

その疑問は残っている。

だが今夜は、答えを急がなくてよかった。
竹娘は、向かい側の種男へ小さく笑いかけた。

「ねえ、種ピー」
「はい?」
「深雪さんの料理も、種ピーが受け継いでるの?」

種男は少しだけ目を見開いた。
「全部じゃないけど、基本は全て深雪さんから教えてもらったよ」
「じゃあ、私が昨日食べた料理にも、深雪さんの味が残ってるんだ」
「……うん」

種男の笑顔が、今度は少しだけ柔らかくなった。
その変化を見て、竹娘の胸に残っていた棘もわずかに和らいだ。

今はそれでいい。

調べるべきことは明日から調べればよい。大伴家も、竹林も、あの龍も、簡単に消えてしまうわけではない。
けれど、種男が自分から話してくれたこの時間は、今ここにしかない。

竹娘は冷めかけた湯呑みを持ち上げた。
「今度、深雪さんの思い出の料理、食べさせてよ」
「もちろん」

種男は静かに頷いた。
「竹娘さんがいる間に、作るね」

いる間に。
その言葉が、妙に胸へ残った。

竹娘は数日後にはルナルナへ戻る。
その事実をなぜか急に意識してしまい、湯呑みへ口をつけて表情を隠した。

「……楽しみにしてる」

もう少し、この店にいたい。
そんな本音を自分の中で見つけたが、口には出さなかった。

代わりに竹娘は、種男が大切にしてきた店の静けさへ、しばらく一緒に耳を澄ませていた。

第六項 やればできる子

白銀歴1204年11月4日(火)

《なよ竹》の昼は、いつもより賑やかだった。

「小粒! 今日も監視に来てやったぞ!!
 ところで! 俺が毎日来るようになった理由、覚えてない?」

開店と同時に、夕星可染が暖簾を跳ね上げた――その直後。

その背後から、近所のヒステリーサークル《厚年貴生涯(こうねんきしょうがい)》の主婦たちが雪崩れ込んできた。
可染の小柄な身体はそのまま一団に轢きつぶされた。床に「バキッ」と何かが軋む音が響く。
「ぐはあっ! ば、ババアども、、、ぉっ!!!」

癇釈院 ひめ子「今日も小粒くん、可愛いわねぇ……食べちゃいたいくらい(舌なめずり)」
発経寺 みつよ「うちの娘のお婿さんになってくれない?」
舌叫野 るつる「うちの娘のお義父さんになってくれない?」
乱打田 みどり「先週より背が伸びてない? 伸びてるわよね? あっちも伸びてるのかしら。」
ひめ子「ねぇ…みつよさん、あの子……将来いろんな意味で有望よねぇ(ひそひそ)」
みつよ「そうね…ひめ子さん。種男くぅん、写真、撮っていい? 個人用に(意味深)」
るつる「もう “いろいろ” 出始める年頃かしらねぇ。私のお口に、白いおしるこ、注文できないかしら?(意味深)」
みどり「種男くん、”私のなか” にだったら “そのへん気にしなくていいわよん”(意味深)」

一方、種男は困ったように笑いながら、味噌汁をよそい、注文を取り、料理を運んでいた。
この程度の騒動で手を止めていては、《なよ竹》の店主は務まらない。そう自分を鼓舞していた。

やがて主婦たちの群れが左右へ分かれ、その奥から、
サークル代表──厚年貴至嬢(こうねんきしじょう)、朔乱原 さくらが姿を現した。
「ごきげんよう、種男君。
 あんた今日も……神代以来の可愛さの災害警報、発令寸前やわ。ほんま、避難指示出るで。

 ところで――」
彼女は周囲をぐるりと見回しながら続ける。
「なんや、あんたを狙う泥棒猫が居ついとるって聞いたんやけど……今日は留守なんか?」

竹娘のことらしい。
当人は朝から調査へ出掛けている。代わりに反応したのは、主婦たちの足元から這い出してきた可染だった。

「ニセ月京だな?よし、話は早い。手を組んであの忌まわしき小娘を――」

可染が最後まで言い切るより先に、さくらの平手打ちが爆音じみた勢いで炸裂し、可染は壁の方へよろめき飛んだ。
さくらは打った手を軽く振った。痛かったらしい。

「誰やあんた、気持ち悪いこと言うて。
 ええか? よう聞いときや。
 大事なのは、ここは種男君のお店で、あたいが一番の太客で、
 あんたはただの迷惑客やいうことや。
 文句あるんやったらな、泥棒猫を排除したい言う前に――
 まず自分の能力、示しぃ?」

種男は味噌汁の柄杓を持ったまま、二人の間で視線を往復させる。
昨日も騒動を止められなかった。今日こそは、店主として何とかしなければならない。

「あの、お二人とも……」
種男は一歩前へ出た。

しかし、その声は周囲の怒号にきれいに呑み込まれた。
勇気を出すことと、声量が足りることは別問題である。

可染は額に青筋を浮かべ、涙目でさくらを指さした。
「いいだろう…見せてやるよババァ。後悔するなよ……今は亡きキサラちゃんがよく言っていた。
 俺様はやればできる子だってなぁ!!
 うあぁああぁぁあん!!!」

可染は両腕を振り回しながら、さくらへ突進した。
種男には、可染が勝つ光景をどうしても想像できなかった。

さくらは不敵に笑い、仕込み杖を抜いた。
「おぉ、仕掛けてきよったわ。
 あんたに何かあっても、これは正当防衛で通るやんなぁ?
 泥棒猫と遊ぶ前の準備運動――
 いや、試し斬りに、ちょうどええわ。」
赤い刀身が滑り出した瞬間、店内の空気が変わる。

「さくらさん、駄目です!」
今度は声が出た。

だが、さくらが刀身を振り下ろす方が早かった。

甲高い金属音が響く。

次の瞬間、可染とさくらの間には珠村鬼乃子が立っていた。
さくらの仕込み杖は、刀身の根元から折れている。

「フハハハ!見たかババァ。鬼乃子は最強!」

鬼乃子はイキリ散らす可染を背後へかばい、普段と変わらない丁寧な声で告げた。
「ご婦人…最初から命を奪うおつもりではなかったとお見受けします。それでも、これ以上は困ります。」

さくらは折れた刀身を見下ろし、どこか愉しげに目を細めた。
「おぉ怖。大した腕やな。
 なんやあんた、このアホに仕えとるんか?
 その人外じみた腕前、あたいが逆立ちして三回転しても勝てへんくらいやのに、分からんわぁ……
 弱み握られて、手ぇ籠めにでもされとるんかいな?」
そして鬼乃子の顔を覗き込むように首を傾げ、「さぁ答えてみぃ」と言わんばかりの視線を向けた。

鬼乃子は視線を逸らし、心底疲れたような溜息をひとつ吐いた。
「可染様に…お仕えするのが……私の使命ですから」
言葉だけなら、忠誠心に満ちていた。表情まで含めると、少々解釈が難しかった。

「何その…めっちゃ嫌そうな感じ!!」
そこだけは、可染も正確に読み取った。

さくらは小さく鼻を鳴らし、折れた杖を収めた。どこか満足げに見える。
「まあ、ええわ。種男君の店を壊すんは本意やないからな」
できれば、抜刀する前に思い出してほしい事実だった。

騒動は収まった。
種男は鬼乃子と目が合うと、小さく頭を下げた。
(……ありがとう、鬼乃子さん)

けれど、種男の胸には別の言葉が残った。
(僕は、結局また何もできなかった)

第七項 娯楽時間

白銀歴1204年11月5日(水) 22:00

竹娘は、下着姿で風呂場の床に座り込んでいた。
塗料の匂いが部屋に残らないよう、夜の工作場所にここを選んだのだ。
換気扇が低く回る下で、塗装を終えた戦闘機模型を目の高さまで掲げる。

「……できた!」
細部まで筆で塗り分けられた機体は、照明を受けて本物めいた光沢を放っていた。

種男は片づけの手を止め、模型を覗き込んだ。

(白!…じゃなくて、青の小さいリボン!…じゃなくて…)
しかし視線をどこへ向けても別の問題が発生するため、最終的に戦闘機だけを凝視することにした。
「す、すごい。これ、全部筆で塗ったんですか?」

「ふふん。昔、ゲルマニア公国地方の模型コンテストで佳作を取ったことがあるんだよ」

竹娘は得意げに胸を張ったあと、少しだけ声を小さくした。
「まあ、子どもの部門だけどね」

部門が何であれ、種男には十分すごかった。
一方の竹娘も、褒められて満更ではない。謙遜したわりに、完成した模型をしまう気配はなかった。

やがて彼女の関心は、机の上に置かれた古いノートへ移った。
模型への集中力は見事だったが、興味の移動速度もなかなかのものである。

「ニシシ。もしや、おなごとの交換ノート?(* ´艸`)」

竹娘が手を伸ばすと、種男は慌ててノートを抱え込んだ。
「ち、違います! でも、駄目です!」

一瞬だけ開いたページには、短い詩らしき文章が並んでいた。

竹娘は目を細める。
「見てないよ」

見てはいた。
「『思い出はいつも綺麗だけど、それだけじゃ飢え死にしちゃう』……んだよね?」
「わああああ!」

種男はノートを胸へ抱き、竹娘から距離を取った。

竹娘はくすくす笑ったが、それ以上は追いかけなかった。からかうには十分だったし、本気で嫌がることまで続ける気はない。

代わりに本棚へ目を向ける。

「《月哭譚(げっこくたん)》……京都府みやこ文化出版」

かぐや姫。
ヒノモトへ来てから、どこへ行ってもその名にぶつかる。

「種ピー、これ好きなの? 意外と恋愛ものが好きだったり?」
「恋愛ものも嫌いじゃないですけど、竹娘さんが言っているのは多分《平安輝夜恋綺乱(へいあんかぐやれんきらん)》”の方ですよ。

 こっちは原典です」

嫌いではないらしい。
竹娘は一瞬そちらへ引っかかりかけたが、どうにか本題へ戻った。

「原典と、有名な《平安輝夜恋綺乱》って何が違うの?」
「原典は、かぐや姫と翁夫婦の絆が中心なんです。友守との恋愛は、《恋綺乱》で加えられた話ですね
 だから恋綺乱は“恋愛要素を盛ってエンタメ化した結果、原典と誤解されてる作品”って感じです」

少し饒舌になった種男は本を手に取り、表紙を竹娘へ見せた。
「原典は京都府の専売で、紙媒体でしか買えないんですよ」

「文化財なのに、お土産みたいな売り方だね」
「だいたい合っています」

京都府の文化政策としてそれでよいのかはともかく、調査資料としては貴重だった。

「気になるなら、読んで大丈夫ですよ」
「ほんと? じゃあ、あとで借りるね」

竹娘は本を受け取り、ひとまず机の端へ置いた。
そして数秒後、その関心は隣のゲームソフトへ移った。

ひとまず、とは実に便利な言葉である。


タイトル :《ステラーヴァルキリーズ:ギャラクシークライシス4 / Stellar Valkyries: Galaxy Crisis Ⅳ》
ジャンル :2D対戦格闘ゲーム
開発   :コムニア軍広報局 × Titan Brawl Works Co., Ltd.
対応機種 :AX-9 / Xenon Z / NovaSwitch / StarLink
プレイ人数:1〜2人(オンライン最大16人ロビー)
ネットコード:星間遅延補正型ICR(Interstellar Correction Rollback)
キャッチコピー:「銀河を救うのは、君の一撃。」

「《ステラーヴァルキリーズ》じゃん。対戦ゲームにもなってたんだ」
実在する特殊部隊を題材にした、歴史ある対戦格闘ゲームだった。竹娘も幼い頃、アニメを一話だけ見たことがある。
「三代目タイタニアが、呆然騎士(ぼうぜんリッター)の駐屯基地へ殴り込む回。あれしか見たことないけど
「よりによって、そこだけですか?」
種男は思わず笑った。

「でも、あれはファンの間でも有名ですよ。通称、殴り込み回です」
「正式に殴り込み扱いなんだ……」

竹娘は端末でゲーム情報を開いた。
物語の概要から対戦成績へ進み、最上位帯のランキングへ目を走らせる。

そこで、見覚えのある言葉を見つけた。
「最高ランクの銀河英雄帯で、二位……プレイヤー名は『ピリ辛の山椒』」

竹娘は端末を下ろし、種男を見る。
小粒種男。
山椒は小粒でも、ぴりりと辛い。

隠す気があるのかないのか、判断に困る名前だった。
「これ、種ピー?」

種男は先ほどまでの照れを忘れ、少しだけ胸を張った。
「そうです。でも一位の『畔蒜猊下(あびるげいか)』さんには、まだ勝てなくて」

世界二位で「まだ」と言えるあたり、普段の控えめな少年とは別人だった。
料理だけでも相当なのに、ゲームまで世界級らしい。

竹娘はゲーム機を手に取り、コントローラーを種男へ差し出した。
「じゃあ、私と勝負してみて」
「いいんですか?」
「もちろん。銀河二位の実力、見せてもらおうじゃない」

種男はコントローラーを受け取った。
その表情が、まな板の前に立った時と同じように引き締まる。

竹娘は一つだけ理解した。
これは対戦を申し込む相手を間違えたかもしれない。
それでも撤回する気はなかった。
「手加減なしね、種ピー」
「分かりました」
「……いや、初心者への配慮は少しだけ欲しいかも」

開始前から、竹娘の要求には若干の修正が入った。

第八項 続々俗々

白銀歴1204年11月6日(木) 夕方

商店街は夕暮れを迎えていた。

軒先の照明が一つずつ灯り、買い物客の声に、店じまいを始める商人たちの掛け声が重なる。
竹娘は種男と並んで歩いていた。

両手には、すでにいくつもの買い物袋がぶら下がっている。
荷物持ちなら得意だと言った手前、この程度で弱音を吐くわけにはいかなかった。

もっとも、彼女にとって重さは大した問題ではない。
困るのは、種男が次から次へと食材を買い足していくことだった。このままでは、腕の数が先に足りなくなる

「竹娘さん、九城ネギは白い部分が甘いんですよ」
種男が青々としたネギを一本持ち上げた。

「あっ、それ知ってる。ルナルナではなかなか買えないやつ」
竹娘は値札を確認し、思わず二度見した。

「ヒノモトだと、こんなに安いんだ……」
「産地が近いですからね。鮮度も全然違いますよ」

種男はうれしそうに九城ネギを籠へ入れた。
それを皮切りに、説明が止まらなくなる。

銀目鯛(ぎんめだい)は、目が澄んでいるものほど新鮮であること。
大薔薇蟹(たばらがに)は、名前に蟹とついていても、生物分類上はヤドカリの仲間であること。
茶都芋(さといも)は、帝王石灰(ていおうせっかい)を焼き石にして炒ると、香りと甘みが引き立つこと。

一つの店先を通るたび、種男の声が少しずつ弾んでいった。

普段は遠慮がちな少年が、食材の話になると次々に言葉を見つけていく。
料理をしている時と同じだった。
好きなものの前では、種男から迷いが消える。

「あっ、ごめんなさい」

種男はようやく話しすぎたことに気づいたらしい。恥ずかしそうに視線を伏せた。
「僕ばかり話してました。退屈ですよね」

竹娘は目を細めた。
退屈どころか、もう少し聞いていたかった。

「ううん。もっと聞かせて?」

種男は一瞬だけ目を丸くした。それから、小さく笑った。
「はい」

その返事が妙にうれしくて、竹娘もつられて笑った。

宇宙船なら、目的地へ短時間で移動できる。
食材も機械で調理できるし、効率だけを考えれば、こうして店を一軒ずつ巡る必要などない。

それでも、種男は自分の目で魚を選び、手で野菜の状態を確かめる。
その隣を歩いていると、手間を掛けることは、必ずしも不便ではないのかもしれないと思えてきた。

この星の暮らしも、悪くない。
そう考えた時、竹娘は少し驚いた。
ヒノモトへ来た目的は調査である。

こんなふうに誰かと買い物を楽しむ予定など、入国申請のどこにも書いていなかった。

「おう、種の字!」

魚屋の主人が、店先から種男を呼び止めた。
「おめぇ、いつの間に、こんなべっぴんさんとデキてたんだべ?」

大きな声が、商店街によく響いた。

竹娘の足が止まる。
種男も固まった。

魚屋の主人は二人の反応を面白がるように笑い、長く太った黒い魚を包み始めた。
「いつも店でうちの魚を宣伝してくれとる礼だ。夜もバッチリよ!」

主人はなぜか腰を前後に揺らしながら、したり顔で親指を立てた。

「こっ、黒王鰻(こくおうまん)…。えっ、いただいていいんですか?」

種男の意識は、一瞬で魚へ移った。
「でも、今の時期なら別の魚の方が状態は良いんじゃないですか。お店で宣伝するなら、旬に合わせた方が……」
「ああ、うん。そういう話じゃなかったんだが…。おめぇらでな。」

魚屋の主人は、どこか遠い目をした。
竹娘は包み紙からはみ出した黒い魚を見て、ようやく話が繋がった。
カライワシ目の中には、精力増強の効能があると噂される種目がいる――
そんな俗説なら竹娘も知っていた。

言葉の意図はだいたい分かっていたつもりだったが、なるほど――
どうやら下世話な方向の冗談でもあったらしい。

二人が親しい間柄に見えたのだろう。

違うと訂正すれば、それで終わる。
「私たち、そういう関係じゃ……」

そこまで言ったところで、続く言葉が出てこなかった。
では、どういう関係なのだろう。

「ありがとうございます。明日はお店で出しますね」
種男は何も気づかず、包みを受け取って頭を下げた。

魚屋の主人は竹娘へ意味ありげな笑みを向けた。
竹娘は愛想笑いを返しながら、その視線の意味を知らないふりでやり過ごした。

帰り道、二人は再び並んで歩いた。
夕暮れの商店街を行き交う人々は、思ったことをずいぶん素直に口へ出す。
ルナルナで同じことを言われたなら、軽く受け流せただろう。

竹娘は横目で種男を見る。
種男は魚の包みを大切そうに抱え、明日の献立を考えているようだった。

先ほどの言葉を気にしている様子はない。
しかし、自分だけが落ち着かないのは癪だった。
少しくらい、種男にも意識させてみたい。

「ねえ、種ピー」
「はい?」
「私、まだヒノモトの方言に詳しくなくてさ」

もちろん嘘だった。

竹娘は何食わぬ顔で続ける。
「さっきの『べっぴんさん』って、どういう意味?」

種男が足を止めかけた。
竹娘がヒノモトの諺まで知っていることを、彼はすっかり忘れていない。
知らないはずがないと思ったのだろう。

それでも、種男は真面目に答えた。
「えっと……美人、という意味です」

「そうなんだ」
竹娘は初めて知ったように頷いた。

種男は視線を前へ戻したものの、耳が少し赤くなっている。
効果はあったらしい。

竹娘は、もう一歩だけ踏み込むことにした。
「じゃあ、デキてる っていうのは?」

種男の歩調が乱れた。

「それは……その……」

言葉を探す時間が、だんだん長くなる。
竹娘は種男の横顔を見つめた。

からかうつもりだった。
たったそれだけのはずなのに、答えを待つ自分の胸まで落ち着かなくなっている。

「特別に親しい間柄というか……そう見えたんだと思います」

ずいぶん慎重な答えだった。
種男は前を向いたまま、竹娘の方を見ようとしない。

「そ、そうなんだ」

竹娘も前を向いた。これでは、どちらがからかわれたのか分からない。

二人の間に、少しだけ静かな時間が流れた。

気まずいわけではない。
ただ、先ほどまでと同じように話すには、互いにほんの少しだけ意識しすぎていた。

種男が持つ魚の包みと、竹娘が抱えた買い物袋が、歩調に合わせて揺れている。
竹娘は半歩だけ足を速め、肩が触れない距離へ戻った。
種男は何も言わず、歩調をほんの少し緩めた。

第九項 慟哭

白銀歴1204年11月6日(木) 深夜
《なよ竹》二階・種男の部屋


障子の向こうで、竹林が風に鳴っていた。
葉擦れの音が寄せては引き、古い家の柱が時折、かすかに軋む。

種男は和室の敷布団で眠っていた。規則正しい寝息に合わせて、胸元の毛布がゆっくりと上下している。

その枕元に竹娘は胡坐をかき、《月哭譚》の原典を膝へ広げていた。
竹娘が知っているのは、《平安輝夜恋綺乱》をもとにした映画やアニメだけだった。
原典を最初から読むのは、これが初めてである。

端末の光を落とすと、画面に封印指定文書が浮かび上がった。

千二百年前の作戦記録。
回収された三つ。
記録ごと消された二つ。
そして、かぐや姫が降下した竹林。

この数日、伝承に残る場所を巡ったものの、悪魔のカケラらしき反応は一つも見つからなかった。
現物がないのなら、残された物語を読むしかない。

竹娘は原典と端末を見比べた。
片方は、かぐや姫を民衆の英雄として語る御伽話。
平安京を首都とするヒノモト国家を支配する皇 銀雅(すめらぎ ぎんが)による圧政から、
かぐや姫が民衆を救ったとされる物語である。

もう片方は、彼女を作戦へ投入された一人の兵士として記録した公文書。

どちらも、そのまま信じるには整いすぎていた。

竹娘は指先で、ざらついた表紙をなぞった。

権力者は、都合の悪い記録を消す。
そのくせ、自らの力を誇る痕跡だけは、紋章や建物や物語の中へ残したがる。
《月哭譚》にも、何かが隠れているかもしれない。

彼女は眠っている種男へ目を向けた。

この部屋のすぐ外には、かぐや姫が降り立ったとされる竹林がある。
そして種男は、大伴深雪からこの土地と《なよ竹》を受け継いだ。
偶然と呼ぶには、少し出来すぎていた。

種男が小さく身じろぎした。
竹娘は反射的に端末の光をさらに落とす。青白い明かりが弱まり、部屋へ夜の色が戻った。

起こすつもりはなかった。彼を問い詰めるつもりも、今夜はない。
ただ、この家に残された過去を知りたかった。

似たようなものかもしれないが、竹娘にとっては大事な違いだった。
ページの端へ指を掛ける。

「さて、と」

声を潜め、竹娘は小さく笑った。
「御伽話の皮、剥がれてくれるかな?」

紙をめくる音が、種男の寝息と竹林の葉擦れへ重なった。
最初の頁には、月明かりに照らされた竹林と、空から降りてくる一隻の船が描かれていた。

竹娘の指が、挿絵の上で止まった。
描かれているのは、《なよ竹》の隣にある竹林によく似ている。
かぐや姫が降り立った場所と、竹娘が種男に出会った場所そのものをモチーフにしたのかもしれない。

竹娘は端末の作戦記録へ一度だけ目をやり、それから物語を読み始めた。

妖のはびこる平安京。
竹取の翁は、月明かりに沈む竹林で、地上へ降りた一隻の宇宙船を見つける。
その内部にいたのは、一人の少女だった。翁夫婦に迎え入れられたその少女は、輝夜姫(かぐや姫)と名づけられた。
彼女は二人の家へ身を寄せながら、星辰剣道を振るい、わずか三か月で平安京の妖を次々と退けていく。

妖(あやかし)。

御伽話の中では、そう呼ばれている。
しかし、記された姿や能力は、悪魔のカケラから生まれた魔物によく似ていた。
当時の人々が、それを妖と呼んだとしても不思議ではない。

物語の中で、かぐや姫の評判は瞬く間に都へ広がった。
やがて彼女のもとへ、多くの求婚者が押しかけてくる。

そこからしばらくは、それまでの戦いが嘘のような喜劇だった。

大げさな贈り物。空回りする求婚。かぐや姫に追い返され、肩を落として帰る男たち。

竹娘の口元が、わずかに緩んだ。
千二百年前の人々も、こういう騒ぎを面白がったらしい。

だが、その求婚者の中には、皇銀雅が送り込んだ五人の暗殺者が紛れていた。
求魂戦隊フラレンジャー。
名前だけなら、あまり強そうではない。

実際の戦いは、笑い話では済まなかった。

五人のうち三人は、妖の力を宿した怪人へ姿を変え、かぐや姫と戦って命を落とす。
残る二人は皇を裏切り、彼女の側へついた。

竹娘は端末へ三つの記録を呼び出した。

森石 公成(もりいし きみなり)が操る、価値ある幻影。
球磨 御史郎(くま みしろう)がまとった、燃え盛る輪。
磯野 良太(いその りょうた)が使った、命を奪う力。

能力の特徴は、回収された三つの悪魔のカケラと重なっていた。

影契家政使魔(マーラ)
葬骸焔奪輪猫魔(ガシャ)
麗理巫堕媛魔(リリス)

名称は違う。
しかし、力の性質までは隠し切れていない。
物語の怪人三人と、政府が回収したカケラ三個。数字まで一致していた。

竹娘はページの端へ指を掛けたまま、しばらく動かなかった。

御伽話の中に、史実が混じっている。
少なくとも、その可能性は高くなったと感じた。

フラレンジャーが退けられると、皇銀雅は翁夫婦を人質に取り、かぐや姫を宮中へ誘い込む。
かぐや姫は包囲を破り、二人を救い出した。
そこで初めて、自分がルナルナから来たことを明かす。
翁夫婦との別れを恐れて、少女は涙を流した。

けれど、なぜヒノモトを救おうとしたのか。
その理由は、どこにも書かれていない。

重要な箇所だけを抜き取られたような、不自然な空白だった。

皇は宮廷地下に封じていた妖を解き放ち、平安京は戦場へ変わる。
妖は、皇が民衆を支配するために作り出した道具だったのだ。
炎に包まれる町。逃げ惑う民衆。夜空を埋める妖の群れ。
夏の夜、ルナルナの使者たちが降り立ち、戦いは全面戦争へ拡大した。
かぐや姫は星辰剣道の奥義・終の四十八手を振るい、至高の妖・夜刀咬(やつがみ)を討ち果たす。
そして翁夫婦へ別れを告げ、月へ帰っていった。

物語では、そうなっている。

竹娘は端末へ表示された帰還記録を思い出す。
《遺体損傷率:42%》

帰還したのは、英雄ではない。遺体だった。

御伽話の華やかな別れと、政府文書に残された無機質な数字。その間には、あまりにも大きな断絶がある。
かぐや姫はルナルナへ帰ったのではない。帰されただけなのかもしれない。

竹娘は小さく息を吐き、次のページをめくった。

物語の終盤、敗れた皇銀雅は、妖の製造法と不老不死の薬を持って不死山へ向かう。
永遠の支配という望みが潰えた皇は、二つの秘宝とともに炎の中へ姿を消した。

竹娘は眉を寄せた。

製造法と不老不死の薬。
それだけを読めば、記録から消された未回収物二個と数が合う。

だが、製造法は「物」ではない。
しかも魔物を生み出す技術は、当時すでにルナルナ政府にも知られていた。
別働隊が命を懸けて奪う本命とは考えにくい。

不老不死の薬はどうだろう。
あるいは、物語の作者が別の何かを薬へ置き換えたのか。

答えは、ページのどこにもなかった。

輝夜姫のもとを去った二人の暗殺者にも、その後がある。
鞍馬桃司は覇極の妖・羅刹鬼(らせつき)と戦った英雄となり、後世では桃太郎の名で語り継がれた。
友守悠紀成は竹林を買い取り、残された翁夫婦の暮らしを支えた。

竹林。

その言葉だけが、何度も物語へ戻ってくる。

かぐや姫が降り立った場所。
翁夫婦が彼女を迎えた場所。
友守が買い取った場所。
そして、後に大伴家が守り続けた土地。

今、その土地を継いでいるのは種男だった。
竹娘は、本からゆっくり顔を上げた。

種男は隣の布団で眠っている。
大伴家最後の人物に育てられ、自分の生まれも両親も知らない少年。
その身には、竹娘が知るどの神通力とも異なる龍が宿っている。

大伴家が千二百年にわたって守ってきたもの。
それは、土地ではなかったのかもしれない。
竹娘の視線が、種男の寝顔へ落ちる。

まさか。

その考えを形にする前に、種男の唇がかすかに動いた。

「……ぁちゃん」

竹娘は端末の光を落とした。
種男は目を閉じたまま、浅く息をしている。夢の中で、誰かを呼んでいるらしい。

「……どうして、死んじゃったの」

声は、竹林の葉擦れに消えそうなほど小さかった。
種男の目尻から、一筋の涙がこぼれた。
布団へ落ち、淡い染みを作る。

竹娘は膝の上の本を閉じた。
未回収の二個も、龍の正体も、大伴家が守ってきたものも、その瞬間だけは遠ざかっていった。

残ったのは、大切な人を失った少年の声だった。

竹娘にも、同じ言葉を何度も繰り返した夜がある。
どうして死んでしまったのか。
どうして自分だけが残ったのか。
いくら問いかけても、父から返事が来ることはなかった。
竹娘は音を立てないように身を寄せ、種男の布団のそばへ座った。

中へ入ることはしなかった。
安易な慰めを口にすることもしなかった。
ただ、目を覚ました時に一人ではない距離を選んだ。

障子の外で、竹が風に揺れている。
閉じた《月哭譚》の上では、月明かりを受けた竹林の挿絵が、暗がりの中へ静かに沈んでいた。

第四幕 十七歳の夜

第一項 映画だけでは足りなくて

白銀歴1204年11月7日(金) 12:15

その日、《なよ竹》は午後から休みだった。

昼食の片づけが終わると、種男は手を拭きながら竹娘の前へやって来た。
何か言いたそうにしているのに、なかなか口を開かない。
竹娘は湯呑みを傾けながら、その様子を眺めていた。

「今日は、その……店も休みなので」
「うん」

頷いて続きを待つ。

種男は一度だけ視線を泳がせ、それから思い切ったように竹娘を見た。
「映画にでも行きませんか?」

竹娘は湯呑みを口元で止めた。
種男から誘われるとは思っていなかった。

買い出しなら何度か一緒に出掛けた。
しかし今回は店の用事ではない。調査でもない。
ただ二人で映画を観に行こうという誘いだった。

頬が緩みそうになるのを隠しながら、竹娘は湯呑みを置いた。

「リクエストしていい?」
「もちろん」
「この国での題名は知らないんだけど、二人の母親が一人の少年を巡って張り合いながら珍道中を繰り広げるロードムービー。テラ連合圏内でしか劇場公開されてないみたいなんだ」

種男はすぐに思い当たったらしい。

「コムニア映画なのに? ガリアン共和国作品のリメイクですよね。《母達の日》だったかな」
「詳しいじゃん!」

好みまで通じたことがうれしくて、竹娘は勢いよく立ち上がった。
「行こ、種ピー。早く行こ!」

返事を待ち切れず、その手を取って店の外へ引っ張る。
種男の手が一瞬強張った。
竹娘も、自分が何をしているのか一拍遅れて気づいた。
離した方がいいだろうか。
そう考えているうちに、種男の指から力が抜けた。振りほどかれる気配はない。

なら、このままでいい。

竹娘は都合よく結論づけ、《なよ竹》を飛び出した。
夕陽が、手をつないだ二人の影を長く伸ばしていた。

映画を観終えた頃には、秋の日は早く、街はもう夕暮れどきだった。
二人は肩を並べ、感想を交わしながら《なよ竹》へ戻った。

「ビリー・サファイアとケビン・ウィリアムズの演技、息がぴったりだったね」
「最後まで張り合ってたけど、どっちもあの子のことを大切にしてたんだろうなあ」

特に印象へ残ったのは、二人の母親に振り回されていたマーゴット少年だった。
口は悪いし、勝手な行動ばかりする。それでも、誰かが迎えに来るのを待っているように見えた。

「マーゴットはクソガキだけど良い子だった。……ああいう子、放っておけないよね」

竹娘がつぶやくと、種男は少しだけ彼女を見た。

「竹娘さんらしいです」
「そう?」
「はい」

何が自分らしいのか聞こうとしたが、種男はそれ以上説明しなかった。

店へ戻ると、客席の椅子に黒い財布が置き去りにされていた。
種男は照明をつけ、財布を拾い上げる。中に入っていた名刺を確認すると、困ったように眉を下げた。

「夕星重機製作所……夕星さんの財布だ」
「また明日も来るんじゃない?」
「免許証に住所があります。届けてあげないと」
「わざわざ静岡まで?」

相変わらずのお人よしだった。
財布を店で保管しておけば、可染はそのうち料理を食べに来る。
財布より先に日替わり定食を要求する可能性さえある。

種男はしばらく財布を見つめていたが、やがて顔を上げた。

「あの、竹娘さん」
「なに?」
「僕の車で行きませんか?」
「今から?」
「はい。夕陽が沈みきる前スタートのドライブです」

京都から静岡まで、片道数時間。
竹娘は目を瞬かせた。

「種ピー、空も飛べるよね?」
「飛べますけど、今日は車がいいんです」

妙にきっぱりしていた。

「疲れてない? 可染さん留守かもしれないし、帰ってくる頃には日付変わってるよ」
「大丈夫です。留守だったら持って帰りましょう。」

種男は少しだけ胸を張った。

「僕、車が好きなんです。将来は、格好いいセダンに乗りたくて」

そこまで話したところで、種男の勢いが急に弱くなった。
財布を持つ手へ視線を落とし、言葉を探すように指を動かしている。

「それに……財布を届けるのは、半分くらい口実です」

竹娘の胸が、小さく跳ねた。
種男は一度だけ息を吸った。

「竹娘さん、明後日の公務が終わったら、ルナルナへ帰るんですよね」
「うん」

分かっていたことなのに、声に出して確認されると帰国の日が急に近づいたように感じられた。

「そう考えたら、映画だけで終わるのは嫌だなって」

それは、どういう意味だろう。聞くまでもない気がした。
けれど、自分に都合よく受け取っているだけかもしれない。

竹娘が答えられずにいると、種男は慌てて続けた。

「静岡へ向かう途中に巴奈馬湖(はなまこ)があるんです。夜景がきれいらしくて。僕も湖畔まで行ったことはないんですけど」

種男が誘っているのは、財布を届けるための外出ではない。
映画の続きを、二人で過ごそうとしている。
そこまで考えた途端、竹娘は種男の顔をまともに見られなくなった。

「……そっか」

声が裏返らなかっただけでも上出来だった。

「じゃあ、行こっか。無理しない範囲でね」
「はい!」

種男の表情が一気に明るくなり、凄まじい速度でおにぎりを握り始めた。夕飯にするつもりだろうか。
その笑顔を見たら、竹娘の胸まで軽くなった。
しかし、このままでは自分が喜んでいることまで知られてしまう。竹娘は急いで別の話題を探した。

「そういえば、巴奈馬湖って鰻の産地だよね?」
「え? はい。御鰻湖(おまんこ)と言われ親しまれるほどの名産地です。」
「ルナルナだと、あそこの鰻はびっくりするほど高いんだよ。せっかくだから現地価格も調査しないと」
「調査……ですか?」
「重要な市場調査です」

もちろん、今思いついた。
種男は竹娘の苦しい言い訳に気づいたのか、気づかなかったのか、小さく笑った。

「それでは、財布を届けるついでに調査しましょう」
「うん。ついでにね」

どちらが本当の目的なのかは、もう怪しかった。
竹娘は車の鍵を手にした種男の後ろを歩きながら、緩みそうになる口元をそっと押さえた。

第二項 月影の理由

白銀歴1204年11月7日(金) 13:00
不死山麓 株式会社夕星重機製作所 マザー工場内・秘密司令室


秘密司令室では、壁一面のモニターが青白い光を放っていた。
その中央に映し出されているのは、《なよ竹》へ出入りする竹娘の姿である。

可染は司令席へ深く腰掛け、飽きもせず画面を睨んでいた。

「ニセ月京め……今日も深雪ちゃんの店へ入り浸りやがって……」

監視開始から三時間。
現在までに確認された竹娘の不審行動は、朝食、皿洗い、買い出しの三件だった。
世界征服を企む悪人から見れば、どれも十分に怪しいらしい。

その背後で、鬼乃子が静かに息を吐いた。
可染がルナルナを嫌うことは知っている。月京家の名を聞いた時の敵意が尋常でないことも知っている。
知らないのは、その理由だった。

「…可染様。どうしてそこまでルナルナを敵視なさるのですか。」

可染はモニターから目を離さない。鬼乃子はもう一歩だけ踏み込んだ。

「特に月京家への反応は、率直に申し上げて異常です。
 《なよ竹》を奪われたという、愚かという言葉すら生温い誤解以外にも、何か理由がおありなのでしょうか」

「ちょっと待って、今、アホな誤解って言ったか?」
「愚かという言葉すら生温い誤解、と申し上げました」
「もっと悪い!」

細かい違いである。しかも本題ではない。
可染は不満そうに鼻を鳴らしたが、しばらくすると低い声で答えた。

「かぐや姫だ」
「はぃい? かぐや姫?」

「……昔の話だ」
いつもの尊大な調子が、可染の声から消えた。
モニターの光を受ける横顔には、千二百年という長い時間が、初めて年輪のように浮かんでいた。

「かぐや姫は、ルナルナ政府のヒノモト侵攻に利用された」

可染は拳を握った。

「最後には、信じていた仲間に裏切られた。不意打ちを受けて、そのまま命を落としたんだ」

司令室が静まり返った。
部屋の隅では、石笠が工具を握ったまま動きを止めている。

「ヒノモトを救った英雄だの、月へ帰った姫だの……御伽話に書かれてることなんか、全部嘘っぱちだ」

鬼乃子は、すぐには言葉を返せなかった。
普段の可染は、昨日の夕食と千二百年前の出来事を同じ調子で語る。そのうえ、昨日の夕食の方を先に忘れる。
しかし今の声には、曖昧な記憶とは別の重みがあった。

「それに、オレは……」

可染は額へ手を当てた。

「ヤツらに平安京を奪われないように、五人の部下と共に五つの財宝を守らなきゃならなかった」

言葉が途切れる。

「五つのうち、二つは守った。たぶん。いや、守ったはずだ。守った気がする」

確信が、一文ごとに弱くなっていった。
これほど頼りない歴史証言も珍しい。
それでも鬼乃子の脳裏には、大伴家の名が浮かんでいた。

千二百年にわたって竹林を守り、最後には深雪から種男へ土地を託した一族。
大伴家も、可染が語る五人の部下と関係していたのだろうか。

質問したところで、有益な答えが返ってくる保証はない。
むしろ新しい謎が増える可能性の方が高かった。

可染はモニターの竹娘を指さした。
「それなのに、あれが月京家の末裔だと!?」

怒りが戻った。
「姫竹(きさら)ちゃんに、まるで似てねえじゃねえか!」

千二百年もたてば、たとえ本物の子孫でも似ていない可能性は十分にある。
鬼乃子はそう指摘しかけ、やめた。
今そこへ理屈を持ち込んでも、可染の耳には入らない。
通常時でも入らないのだから、なおさらである。

「偽物だ」

可染の声がかすれた。

「本物の月京の血は、もう残ってねぇ……」

顔が崩れ、鼻をすする音が響いた。次の瞬間には、涙まで流していた。
鬼乃子は無言でハンカチを差し出した。可染は受け取ると、盛大に鼻をかんだ。

「返却は不要です」

鬼乃子は即座に所有権を放棄し、ふと脳裏をよぎった違和感について考え始めた。

(月京姫竹(つきのみや きさら)…それが、かぐや姫のお名前。
 そして弊社の中枢人工知能AIの名前も《KISARA》…まさか、可染様…?

 ……やっぱりキモ……いえ、複雑なご事情がおありなのですね)

少々重い。かなり重い。率直に言えば、怖い。
だが、その執着が千二百年続いた喪失から生まれたものなら、単純に気味が悪いだけでは片づけられなかった。

「だからオレ様は、このヒノモトを守らなきゃならねえんだっ」

可染は涙を拭い、立ち上がった。
小さな背中だった。
それでも、その言葉だけは冗談に聞こえない。

「そうしなきゃ、姫竹ちゃんの死が無駄になっちまう」

鬼乃子は可染を見つめ、眉間を押さえた。

「……おやめください……可染様の癖に……
 そんな切実な事情がおありだったなんて。
 
 少し……本当にほんの少しだけ同情しそうになってしまうではありませんか。」

鬼乃子にとって、その僅かに芽生えた同情は非常に不本意なものだった。

直後、可染は急に元気を取り戻した。
嫌な予感がした。

「そうと決まれば、ルナルナ特使の迎撃準備だ!」

鬼乃子の同情は、芽生えてから七秒で枯れた。新記録だった。

「なぜ、そうなるのですか」

「石笠!」

司令室の隅で工具をいじっていた石笠が、条件反射で直立する。

「先日、ヒノモト放送協会から発注を取り消された集金兵(しゅうきんぺい)二百体を、戦闘用に改造しろ!」
「アイアイサー!」

石笠は見事な敬礼を返した。
命令内容の確認より返事を優先するあたり、組織人としては優秀である。
問題は、命令する側も受ける側も、組織人としてそれ以外の部分が壊滅的なことだった。

「お待ちください」

鬼乃子の一声で、石笠の足が止まった。

「集金兵は、未払い料金の案内と契約確認を行うロボットですね?
 武装する必要がどこにございますか」

可染は胸を張った。

「じゃあ、何ならいいんだ!」
「まず普通にお話しください」

可染は露骨に顔をしかめ、そのまま鬼乃子の正論を聞かなかったことにした。
対話という、最も低予算かつ合法的な手段が、彼には一番難しいらしい。

鬼乃子は、もはや何度目かも分からない諦めの溜息を吐いた。
(そもそも弊社の世界征服とは、優秀な重機製品で市場占有率を高めることだったはずです。
 このままだと、ただの犯罪者です…)

第三項 タネピー号、発進

白銀歴1204年11月7日(金) 16:47

《なよ竹》の前の通りは、夜の気配を帯びた夕陽に染まりつつあった。

街灯の白い光が舗装路を細く照らし、その下に一台の軽自動車が停まっている。
古い車だった。
けれど、くすみのない車体も、磨かれた窓も、持ち主が大切に扱ってきたことを物語っていた。

種男が鍵を操作すると、ヘッドライトがふっと灯る。
夜の底に、小さな船が浮かび上がったようだった。

竹娘は腕を組み、車の周囲をゆっくり見回した。
「……これが、タネピー号?」

種男の動きが止まった。どうやら今この瞬間、本人の知らないところで車名が決定したらしい。

「タネピー号……」
「嫌だった?」
「いえ。初めて聞いたので」

種男は車と竹娘を見比べたあと、諦めたように小さく笑った。
「古いですけど、ちゃんと走ります」

その声には、わずかな誇らしさが混じっていた。
竹娘はもう一度、車を眺める。
空を飛ぶわけでもない。恒星間航行もできない。最高速度だって、竹娘の宇宙船とは比べものにならないだろう。
それでも、種男が好きだと言うだけで、少し格好よく見えてくるから不思議だった。

「いいじゃん。こういうの、好きだよ」

竹娘はボンネットへ触れない程度に手をかざした。

「誰かに運んでもらうんじゃなくて、自分で走るための足って感じがする」

種男は一瞬きょとんとした。
それから、うれしそうに目を細める。

「乗ってください。助手席のシート、少し倒れやすいので気をつけて」
「そこは直してないんだ」
「走る部分を優先しました」
「なるほど。タネピー号、思想が男前だね」

竹娘が助手席へ腰を下ろすと、シートが少しだけ後ろへ傾いた。
たしかに倒れやすい。
種男は嘘をついていなかった。まったく自慢にはならないが。

ドアを閉めると、軽い金属音が夜へ吸い込まれた。
車内は思ったより狭い。
運転席へ乗り込んだ種男との距離も、店で向かい合っている時より近く感じられた。
竹娘はシートベルトを引き出した。なかなか伸びてこない。

二度、三度と試すうちに、種男が身を寄せた。

「少しだけ上へ引くと外れます」
「あ、うん」

種男の手がベルトへ伸びる。
肩が触れそうになり、竹娘は反射的に背筋を伸ばした。

近い。
ただシートベルトを引いているだけなのに、なぜ自分まで緊張しなくてはならないのか。

カチリ、と金具がはまった。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
竹娘の返事は、自分で思ったより小さかった。
種男は特に気にした様子もなく、運転席へ座り直した。

エンジンがかかる。
古い車特有の低い振動が、座席から竹娘の身体へ伝わってきた。宇宙船の静かな駆動音とはまるで違う。
機械の内部で、いくつもの部品が懸命に動いている。
そんな手触りのある音だった。

「ワオ……」

竹娘は窓の外へ顔を向けた。

「宇宙船とは全然違うね。揺れるし、音もするし」
「やっぱり、乗り心地悪いですか?」
「ううん。なんだか落ち着く」

種男はハンドルへ両手を添えた。

「僕、車が好きなんです」
「うん。見れば分かる」
「空を飛べても、地面を走るのって特別で。道を一つずつ進んで、自分の手で曲がって、目的地まで行くのが好きなんです」

種男の声は、食材や料理について話す時と同じだった。
好きなものを語っている時だけ、この少年は少し饒舌になる。

竹娘は横目で、その姿を見つめた。
街灯の光がフロントガラスを流れ、種男の頬へ淡い影を落とす。
竹娘はその横顔をしばらく見つめ、そっと視線を外した。

車がゆっくりと走り出す。
夜の京都が、窓の向こうを静かに流れていった。

映画館から戻る途中、種男が口にした言葉が、まだ竹娘の胸へ残っている。

映画だけでは嫌だった。
もっと一緒に過ごしたかった。

意味を尋ねなくても、十分分かる気がした。
けれど、分かったつもりになるのも落ち着かない。

もしかしたら、種男にとっては友人としての言葉かもしれない。
竹娘だけが別の意味を期待していたら、ずいぶん恥ずかしい。

それでも確かめずにはいられなかった。

「……ねえ、種ピー」
「はい?」
「さっきの話なんだけど」

竹娘は窓の外を見たまま続けた。

「映画だけでは嫌だって言ってたでしょ。あれ、どういう意味?」

種男の手に力が入った。
ハンドルを握る指が、ほんの少しだけ固くなる。

反応はあった。
竹娘は窓へ映る種男の横顔を、気づかれないようにうかがった。
種男は前を向いたまま、しばらく黙っていた。
問いかけた竹娘の方まで落ち着かなくなってくる。

冗談だったことにして、話を変えようか。
そう思い始めた頃、種男が口を開いた。

「そのままの意味です」
「そのまま?」
「竹娘さんと過ごせる時間が、もっと欲しいと思ったんです」

竹娘は息を止めた。
逃げ道のない答えだった。

「明後日の公務が終わったら、帰ってしまうから」

種男の声は小さかったが、エンジン音に消えることなく竹娘まで届いた。

「だから、映画だけで終わるのは嫌だなって」

そこまで素直に言われてしまったら、からかうこともできない。

竹娘は窓の外へ視線を逃がした。
夜の街並みが、少し速く流れているように見える。

ずるい。

種男は普段、あれほど遠慮がちなのに、時々こうして真っすぐな言葉を投げてくる。
受け取る側がどうなるかなど、きっと考えていない。

竹娘は頬へ手を当てた。
窓から入る夜気は冷たい。それなのに、指先へ触れた頬は少し熱かった。

「……そっか」

それだけ答えるのが精いっぱいだった。
種男も、それ以上は何も言わなかった。
車は京都の街を抜け、巴奈馬湖へ続く長い道へ入っていく。

二人の間に沈黙が落ちた。
けれど、気まずくはなかった。

先ほどまでより互いを意識しているせいで、何を話しても余計な意味が生まれそうなだけだった。

竹娘は窓へ映る種男の姿を、もう一度だけ盗み見る。
種男は前を向き、真剣な顔で運転していた。

言いたいことを言って、すっきりしたようにも見える。
また、自分だけが落ち着かなくなっている。

それが少し悔しくて、竹娘は口を開いた。

「種ピー」
「はい?」
「タネピー号、乗り心地いいよ」

種男は一瞬だけ竹娘を見た。
それから、うれしそうに笑った。

「ありがとうございます」

本当に伝えたかったのは、車の感想ではなかった。
けれど今は、これでいい。
ヘッドライトが、傾いた夕陽が、暮れゆく道の先を細く照らしている。

車はその光を追うように、二人をまだ知らない夜の先へ運んでいった。

第四項 Seventeen

白銀歴1204年11月7日(金) 18:55

車は巴奈馬湖へ向かう山道を走っていた。

二人で食べた種男手製のおにぎりの余韻が、まだ舌に残っている。
街灯のない道を、ヘッドライトだけが細く切り開いていた。

竹娘は窓を少し開けた。流れ込んだ夜風が、火照った頬を冷ましていく。

「冷たいけど、気持ちいいね」
「湖が近いから、空気が澄んでるんです」

種男の声を聞きながら、竹娘は夜空を見上げた。
今日が終わる前に、伝えておきたいことがある。

「ねえ、種ピー。今日って七日だよね」
「はい」
「じゃあ、私、何歳に見える?」

(うわ、絶対に間違えられないヤツー…)
種男は急に難しい顔になった。

「……十六歳?」
「惜しい。昨日までなら正解」

ハンドルを握る種男の指が、ぴたりと止まる。

「今日、誕生日なんですか?」
「そう。十七歳になりました」

種男は慌てて祝いの言葉を重ね、自分の都合で連れ出したことまで謝り始めた。
竹娘は思わず笑った。

「謝らなくていいよ。祝ってほしくて言ったわけじゃないし」

本当は、少しくらい祝ってほしかった。
それよりも、種男に知ってほしかった。

「でも、僕が竹娘さんの誕生日を知れたのは……うれしいです」

胸の奥を、指先でそっと触れられたような気がした。
竹娘は窓の外へ顔を向ける。種男に見られなくても、自分の頬が熱いことくらい分かっていた。

「誕生日を誰かと過ごすの、久しぶりなんだ」

昔は、父や友人と毎年祝っていた。
失ってからは、誕生日も過ぎていくだけの日になった。

「でも今年は、種ピーと夜道を走ってる。不思議だね」
「僕は、うれしいです。竹娘さんの誕生日を、一緒に過ごせて」

竹娘は夜風を胸いっぱいに吸い込み、小さく笑った。
「じゃあ、今夜は特別ってことにしよっか」

車は暗い山道を抜け、湖へ向かって走り続けた。
二人の間の沈黙は、もう寂しくなかった。

第五項 湖畔の罠

白銀歴1204年11月7日(金) 19:00前後

車が山道を抜けると、視界が一気に開けた。

夜の闇の中に、巨大な水面が横たわっている。
巴奈馬湖。
遠い街の光を映した湖面は、黒い鏡のように静まり返っていた。

「すごい……こんなに大きいんですね」

種男はハンドルを握ったまま、素直な感嘆の声を漏らした。

「鰻の仕入れで近くの卸売場には来たことがあるんですけど、湖畔まで来るのは初めてです」

竹娘は返事をせず、道路脇へ目を凝らしていた。
観光地として整備された道にしては、妙に隙がない。
ガードレールの根元には、新しい金属片が一定の間隔で埋め込まれている。植え込みの奥では、小さな黒いレンズが同じ方向を向いていた。

監視装置だった。

しかも、地方の観光地へ置くには数が多すぎる。
既製品に混じって、竹娘にも規格の分からない機器まである。
道が湖岸へ近づくほど、その密度は高くなっていた。

「……ずいぶん警戒されてる湖だね」

竹娘が小さく漏らしたが、種男には聞こえなかった。
車内ラジオから流れ始めた歌謡曲「ヤタガラスの少年 / 神姫kids」に合わせ、機嫌よく口ずさんでいる。
「そんな小さな“カケラ”に〜人生ごと売り渡すキミが哀しい〜 僕の心は 砕けちった 神珠(しんじゅ)さーーー♪」

よく通る、澄んだ声だった。
竹娘は注意を促そうとしたが、その横顔を見て言葉を止めた。
もう少しだけ聞いていたい。
そんな場面ではないと分かっているのに、種男の歌声を途中で切るのが惜しかった。

代わりに、竹娘は湖の向こうへ視線を移した。
観光施設の明かりから外れた一角だけが、不自然なほど暗い。山肌へ溶け込んでいるが、輪郭が自然物にしては硬すぎた。

地下施設への出入口。
そう考えれば、街灯の根元に付いた冷却装置らしき突起にも、道路沿いへ並ぶセンサーにも説明がつく。

これは観光客を見守るための設備ではない。
接近者を見つけ、必要なら迎え撃つための布陣だった。

竹娘の背筋を、冷たい感覚が走った。
すでに監視網の内側へ入っている。
もし自分を狙う者がこの周辺にいるなら、車の位置も、種男が同乗していることも知られている可能性が高い。

湖面に映った光が、一度だけ明滅した。
その瞬間、道路脇の黒いレンズが車を追うように動いた。

竹娘は種男へ声を掛けようとした。
だが、その時にはもう遅かった。

二人の映像は、湖畔から遠く離れた地下司令室へ送られていた。

夕星重機製作所の地下では、壁一面のモニターが湖畔の様子を映していた。

ただし、軍事施設めいた監視網が捉えていたものの大半は、夜景を楽しむ観光客や、仲良く並んで歩く二人連れだった。
兵器としては過剰であり、観光案内としては趣味が悪い。

可染は司令席で腕を組み、モニターを睨みつけていた。
しかし、そこの映る大半は――湖畔でいちゃつくカップル達であった。
「どいつもこいつも……人様の湖畔で乳繰りおうてからに……ゆ、許せねぇ。」

隣では石笠が、監視映像の拡大機能を熱心に試している。
「うおっ……おうっ……おおうっ……おうっ……!」
興奮しているようだ。

「お二人とも、悪趣味です」
そう注意した鬼乃子自身も、モニターから目を離していなかった。
説得力は、あまりなかった。

その時、司令室へ警告音が響いた。
中央モニターの表示が切り替わり、一台の軽自動車が大きく映し出される。
運転席には種男。助手席には竹娘。

可染は椅子から跳ね起きた。

「何であの二人が、こっちへ向かってるんだ!?」

画面上の進行方向は、夕星重機製作所の施設を示していた。
目的を知っている者から見れば、財布を届けに向かっているだけである。

事情を知らない可染から見れば、ルナルナ特使と謎の龍を操る少年が、夜中に二人そろって秘密基地へ接近していることになる。

誤解する余地は十分にあった。
可染の場合、その余地を最大限まで活用した。

「まさか、集金兵の改造が終わる前に攻めてくるとは……やるな!」

鬼乃子は画面を見つめながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
(あの雰囲気……違う気がしますけど。
 違って……欲しいです、なんか……)

警戒しながら周囲を見回す竹娘と、ラジオに合わせて楽しそうに歌う種男。
少なくとも後者は、秘密基地を攻略しに来た者の態度ではなかった。

「可染様。お二人の目的を確認してからでも遅くはないかと存じますが」
「遅い! 敵はもう射程圏内だ!」

その射程圏を勝手に道路まで広げたのは可染たちである。
しかし可染は机を叩き、竹娘の映る画面へ指を突きつけた。

「ニセ月京め! 貴様らがそのつもりなら、こちらも受けて立つ!」
「まだ何もしていませんが」

鬼乃子の指摘は無視された。

「無人戦闘艇を発進させろ! ミサイル、バルカン砲、プラズマレーザー砲を搭載! 二人を捕獲する!」

石笠が勢いよく敬礼した。

「アイアイサー!」

その返事のよさを、別の場面で発揮してほしいところだった。
鬼乃子は深いため息をついた。
止めたところで、可染は別の指示を出すだろう。ならばせめて、被害を抑える準備をした方が早い。

「確認いたしますが、捕獲用の機材は搭載されていますか?」

司令室が静まり返った。
可染が石笠を見る。
石笠が可染を見る。

二人とも、初めて聞かれたような顔をしていた。
鬼乃子は答えを待たなかった。

「搭載されていないのですね」

無人戦闘艇の発進準備が始まった。
一方、湖畔を走る種男は、まだ歌を口ずさんでいた。

竹娘だけが、道路の奥から近づいてくる異常な駆動音に気づいていた。

こうして二人の静かな夜のドライブは、一人の自称悪人による全力の勘違いによって、戦闘へ巻き込まれていく。

この夜、タネピー号を追ってきたのは、忘れ物の持ち主ではない。
ミサイルなのだ。

第六項 竹取合戦・前夜戦

巴奈馬湖の静寂を引き裂き、背後から低い駆動音が迫った。
竹娘が振り返るより早く、黒い無人戦闘艇が軽自動車の真横へ並ぶ。

外部スピーカーから、可染の声が響いた。
機械変換で声の質は完全に変わっている。

「止まれ、侵略者ども!」

種男の手に力が入り、車体がわずかに揺れた。

侵略者。

その言葉が種男に、竹娘と出会った夜の会話を呼び起こした。
かぐや姫はヒノモトを守った英雄ではなく、侵略へ加担した悪党だった。
そして竹娘は、その血筋と意思を継ぐ者だと語った。
もちろん、竹娘の作り話である。

しかし種男は、冗談だと知らない。

彼の横顔に浮かんだ迷いを見て、竹娘は自分の軽口を後悔した。
人を疑わない種男を少しからかっただけだった。その小さな嘘が、最悪の場面で戻ってきた。

「種ピー、あれはね」

弁解しかけたところで、戦闘艇から再び声が流れた。

「とりあえず止まれ! 止まらないと撃つぞ!」

その頃、地下司令室では、可染が操作盤の別のボタンへ指を置いていた。
押した。

「あ」

押すつもりはなかったようだ。
しかし時すでに遅し、戦闘艇のミサイル発射口が開いていた。

石笠の眼鏡がずり落ちる。

「か、閣下! 控えめに言ってあなたはイカれております!!」

警告音が車内へ届く。
竹娘は反射的に動いた。
種男のシートベルトを手刀で切断し、運転席側のドアを蹴り開ける。そのまま種男を抱え、走行中の車から外へ飛び出した。

直後、ミサイルがタネピー号を捉えた。

轟音と爆風が湖畔を揺らす。
軽自動車は地面から浮き上がり、回転しながら道路脇へ弾き飛ばされた。
竹娘は種男を抱えたまま背中から地面へ滑り込み、勢いを殺した。爆風が二人の頭上を通り過ぎ、砕けた車体が火花を散らす。

「種ピー、怪我は?」
「だ、大丈夫です」

竹娘は息を整え、周囲を見回した。

妙だった。

これほど近くで車が破壊されたのに、破片が一つも飛んでこなかった。偶然にしては、二人の周囲だけが守られすぎている。
だが、原因を考える時間はなかった。

無人戦闘艇が残骸の上空を旋回し、再び可染の声を響かせる。

「くそー! 捕獲! 捕獲! 距離を取り、バルカン砲発射!!!」

捕獲と銃撃の相性について、可染は深く考えていなかった。
戦闘艇が高度を上げ、竹娘との距離を取ろうとする。

その瞬間、竹娘は地面を蹴った。

一気に戦闘艇へ追いつき、バルカン砲の固定台へ飛び蹴りを叩き込む。
金属が軋み、台座が大きく傾いた。

続けざまに放った光の斬撃が、固定部を切り裂く。
砲身が道路へ落下した。
竹娘は地面へ着地し、転がってきたバルカン砲を拾い上げる。

「これなら、反撃できそうだね」

無人戦闘艇の隠しハッチが開いた。
現れたのは、青白い光を収束させるプラズマレーザー砲だった。

竹娘の右手にも、同質の光が集まる。
撃たせ、それを反射する。
そう判断した直後、レーザーが放たれた。

しかし、光は竹娘へ届かなかった。
何もない空間へ吸い込まれるように消えたのである。

竹娘が振り返る。

種男の周囲に淡い光が渦巻き、半透明の龍が姿を現していた。
龍は長い身体を巡らせ、竹娘を包むように防壁を張っている。

種男は不安そうに、それでも視線だけは竹娘から逸らさず、見守っている。

(この龍、やっぱりー)
竹娘は息を呑み、それから小さく笑った。

「……ありがとう、種ピー」

拾ったバルカン砲を構え、無人戦闘艇へ照準を合わせる。
引き金を引くと、砲撃が夜空を走った。
無人戦闘艇は空中で爆発し、燃える破片となって湖畔へ散っていった。

地下司令室では、可染が椅子から転げ落ちていた。

「何者なんだ、あいつら……」

石笠はモニターへ顔を近づけた。恐れるどころか、技術者として興味を刺激されたらしい。

「バルカン砲は、敵に奪われても使用できないよう改修すべきでしたな」

「反省点はそこなのですか」
鬼乃子は深いため息をついた。

画面には、無傷で立つ竹娘と、龍をまとった種男が映っている。
追加の戦闘艇を送ったところで、結果は変わらないだろう。それ以前に、すでに湖畔の警察へ異常が伝わっている可能性が高い。

「これ以上の攻撃は中止してください。警察も間もなく来ます」

鬼乃子は監視映像と作戦記録を消去し、通報画面を開いた。

「戦闘艇は正体不明。お二人は被害者。私は遠隔監視中に事件を発見した目撃者として通報します」

「た、助かる……」

可染は床へ座り込んだまま、震える声で答えた。

鬼乃子は穏やかに微笑んだ。
その目は、可染のために後始末をする者だけが身につけられる、深く冷え切った光を帯びていた。

爆発の余韻が消え、湖畔に静けさが戻った。

竹娘は真っ先に種男へ駆け寄った。
怪我がないことを確認してから、壊れたタネピー号へ目を向ける。
原形は、ほとんど残っていなかった。

「……ごめんなさい」

喉が詰まった。

「私のせいで巻き込んだ。種ピーが大切にしてた車なのに」

種男はすぐに首を振った。

「ドライブへ誘ったのは僕です。それに、竹娘さんが助けてくれたから」

声は明るく取り繕われていたが、残骸へ向けた視線までは隠せなかった。
種男は悲しんでいる。それでも、竹娘を責めないようにしている。
竹娘には、それが余計につらかった。

種男は無理に表情を切り替え、今度は竹娘へ目を輝かせてみせた。

「それより、さっきの飛び蹴り、すごかったです。斬撃みたいな光まで出て……あれ、人間にできるんですか?」

竹娘を落ち込ませまいとしているのだろう。
その優しさに甘えるのは心苦しかった。それでも今は、種男の気遣いを無駄にはしたくなかった。

竹娘は飛び蹴りの姿勢を再現し、わざと得意げに笑う。

「ふふん。身体の力に、神通力を組み合わせたんだよ」
「神通力?」
「世界の法則へ、少しだけお願いを聞いてもらう力かな」

火を生み、水を操り、空間すら歪める。そしてこれらも一例に過ぎない。
森羅万象を本能で理解”し制御する力なのだと。
竹娘が簡単に説明すると、種男は素直に感心した。

「つまり、こうやって」
竹娘は勢いよく拳を突き出した。

「バッと理解して、ズバッと使う!」
「急に説明が雑になりましたね」
「本能だからね!」

種男は思わず笑い、竹娘もつられて笑った。

壊れた車は戻らない。
竹娘の胸に残る罪悪感も、簡単には消えなかった。
それでも、種男が笑ってくれたことだけは、今夜初めて得られた小さな救いだった。

第七項 告白

パトカーのサイレンが近づき、若い警察官が湖畔へ駆け込んできた。

「怪我はありませんか?」
二人の無事を確かめると、警察官は種男へ事故報告書を渡した。
種男が財布を届けに行く途中だったと説明しかけた時、竹娘が小さく首を振る。

警察官は一瞬だけ彼女を見つめ、それ以上は尋ねなかった。

「湖へ向かう途中、正体不明の戦闘艇に襲われた。ひとまず、その事実だけで十分です」
必要な事項を書き留め、警察官は去っていった。

赤い警光灯が遠ざかると、湖畔に静けさが戻った。
黒い湖面の向こうで、夜の光が揺れている。

竹娘はその光を見つめたまま、自分の過去を語り始めた。

幼い頃の誕生日。
父ソルエルと親友エルザェムとの別れ。
十歳で終わった普通の暮らし。
偽名を使い、各国の腐敗を追った六年間。
そして、月京竹娘という名前さえ借り物であること。

どれも、本来なら他人へ明かすべきことではなかった。
弱みは隠す。名前は使い分ける。信用する前に疑う。
それが、竹娘が生き延びるために覚えた方法だった。

それでも、種男には知っておいてほしかった。
今日という夜が、自分にとってどれほど特別だったのかも。

「……ありがとう」

竹娘はようやく種男へ顔を向けた。

「今日、一緒にいてくれて」

種男は黙って彼女の話を聞いていた。
慰めの言葉を探しているようだったが、やがて諦めたらしい。
代わりに、焼け残った黒い財布を持ち上げた。

「まだ、今日――終わってませんよ」

夕星可染の財布だった。
爆発の中でも、しっかり守っていたらしい。

「これ、届けに行かないと」
「車、なくなったのに?」

竹娘が尋ねると、種男は頷いた。
歩いてでも行くつもりなのだろうか。
本当に、どこまでも人がいい。

種男は財布を抱えたまま、もう一方の手を胸元へ置いた。

「僕も、竹娘さんに聞いてほしいことがあります」

淡い光が指の間から漏れた。

赤、青、緑、黄。

胸元に当てた種男の手のひらから溢れるように、四つの光は混ざり合い、一つの白い球体へと変わっていった。

「物心がついた頃から、龍は僕の中にいました。不安になると現れて、火や水や風や土を動かして……怖かったんです」

深雪と暮らすようになってから、龍の力は次第に落ち着いたという。
今では種男の意思を待たず、危険が迫れば彼を守る。
先ほど竹娘を救った時のように。

「もし、この力を必要としている人がいるなら……渡せるものなら、渡してもいいって思ったんです」

竹娘の表情が消えた。

「何、それ」

種男が顔を上げる。

「竹娘さんなら、この力をもっと――」
「やめて」

声が震えた。
自分でも驚くほど、強い言葉だった。

「そんなこと、二度と言っちゃダメ」

竹娘は種男の肩をつかんだ。
怖かった。
種男が自分の力を差し出すことではない。

彼なら、出来るのであれば、本当に差し出してしまうだろう。
誰かが困っていると言えば、その人間が善人かどうかも確かめず、自分の大切なものを渡してしまう。

竹娘は、そんな人間が食い物にされる世界を知っていた。

善意を褒めながら利用する者。
使命や正義を騙って犠牲を求める者。
純粋な人間へ負担を押しつけ、自分だけ安全な場所へ残る者。

父の研究も、そうした欲望に狙われた。
そして今、種男が同じ場所へ足を踏み入れようとしている。

竹娘の指に力が入った。

「誰かに何かを与えることと、自分を犠牲にすることは違う。善意だからって、何を差し出してもいいわけじゃない」

種男は何も言わなかった。

「困っている人を助けたいなら、助ければいい。でも、自分まで失くす必要なんてどこにもない」

言葉が止まらなかった。
いつもの軽口も、冷静な分析も出てこない。

「種ピーの優しさを利用する人間だっている。
 感謝するふりをして、もっと寄越せって言う人間もいる。
 それで種ピーが空っぽになっても、そいつらは責任なんか取らない!」

竹娘の目に涙がにじんだ。
腹が立っていた。
種男へではない。
彼のような人間から、当然のように何かを奪おうとする者たちへ。

そして、自分も調査のために種男へ近づいたのだという事実へ。

「種ピーは、種ピーのものなんだから」

湖畔に沈黙が落ちた。
竹娘はようやく、自分が種男の肩を強くつかんでいることに気づいた。

慌てて手を離そうとした時、その手を種男がそっと押さえた。

「竹娘さんだから、渡してもいいと思ったんです」

竹娘は息を止めた。
それは安心できる答えではない。
むしろ、さらに困る答えだった。

「……私だって、信用しすぎないで」
「でも、信じたいです」

淡い光が二人の周囲へ集まり、龍が姿を現した。
出会った夜よりも大きく、先ほどよりも鮮明だった。

竹娘は龍の鼻先へ手を伸ばした。
伝わってきたのは、光でも幻でもない、不思議な生き物の温度だった。

「この力、料理に使えばいいんじゃない?」

竹娘は涙をごまかすように言った。
「火も水も風も操れるんでしょ。厨房では無敵だよ」

種男は困ったように笑った。
「それでいいんですか?あ、土はぬか床に応用できるかも」
冗談を混ぜる余裕も戻ってきた。

「世界を救うより、種ピーの料理で誰かのお腹を満たす方がいい」

竹娘は龍の頭を軽く撫でた。
「その方が、ずっと種ピーらしいよ」

種男が龍へまたがり、竹娘もその後ろへ乗る。
龍は身体を沈めると、地面を蹴るように夜空へ舞い上がった。

湖畔が急速に遠ざかる。
風が二人の髪を後ろへ流し、星明かりが龍の身体へ青白い軌跡を描いた。

「怖くないですか?…いや、竹娘さんが怖いわけないか、こんなの」

種男が前を向いたまま尋ねる。
竹娘は一度、小さく頷いた。

「うん」

そして次の瞬間、種男の背中へ勢いよく抱きついた。
満面の笑みで――風切り音をかき消すほどの大声で――どこか甘えた響きを混ぜながら叫ぶ。

「いや、やっぱり怖い! 落ちる、落ちるって!」
満面の笑みで種男の背中へ抱きつき、その腕へ少しだけ力を込めた。

龍は二人を乗せ、不死山へ向かって夜空を駆けていく。
竹娘は種男の背中へ頬を寄せ、腕へ少しだけ力を込めた。

自分を失わないで。

その願いは、種男だけへ向けた言葉ではなかった。

龍が雲を割って進むと、遠くの地平線に街明かりが淡くにじんだ。

竹娘はその光を見つめながら、小さく息を吸う。
「……きれい」

龍の背で、二人はまだ知らない夜の先へ向かっていく。
星明かりの下へ確かな軌跡を描きながら、龍は不死山にある可染の住居へ飛び続けた。

やがて雲が途切れ、不死山の巨大な山影が夜空に浮かび上がった。

第五幕 竹取合戦

第一項 不死山の待ち伏せ

白銀歴1204年11月7日(金) 20:00前後

不死山。

かぐや姫から授かった不老不死の薬を、平安京の最高権力者が焼き捨てたと伝わるヒノモトの霊峰である。
まさか自分が、龍に乗って訪れることになるとは。
種男は夜空にそびえる山影を仰ぎ、それから眼下へ視線を落とした。

不死山の麓には、夕星重機製作所のマザー工場が広がっていた。
その隣には、工場地帯から浮いて見えるほど立派な和風豪邸が建っている。

龍は高度を下げ、豪邸の門前へ着地した。

そこには夕星可染が立っていた。
長いマントをまとい、腕を組み、二人が到着するのを待ち構えている。

「残念だ、少年」

可染は精いっぱい低い声を作った。

「貴様の料理、もっと食べたかったぜ」

種男は龍から降りると、竹娘へそっと身を寄せた。

「もしかして、ずっと門の前で待ってたのかな」

どう見ても待ち伏せである。
竹娘にも分かっていたが、正直に答えると面倒な展開が確定しそうだった。

「夜の散歩じゃない?」

種男は可染の仁王立ちを見直した。

「散歩にしては、動いてませんけど」
「ルート構築中でじっとしてるんでしょ。まだ」

苦しい説明だった。
種男がさらに尋ねる前に、別の声が夜気を震わせた。

「失礼いたします」

直後、空気を裂く音が響いた。

門柱の陰から、鉤爪のついた鞭が飛び出す。蛇のように身をくねらせながら、まっすぐ種男へ迫ってきた。
種男は反応できなかった。
鉤爪が胸元へ届く寸前、竹娘が二人の間へ踏み込む。

振り上げた腕が、鞭を横から弾いた。
金属同士が衝突したような音が鳴り、火花が闇へ散る。
弾かれた鉤爪が竹娘の腕をかすめ、浅い傷を残した。

「竹娘さん!」

種男が声を上げる。

「大丈夫。これくらいなら、絆創膏も要らない」

竹娘は腕を軽く振り、鞭が飛んできた方向へ目を向けた。
暗がりから、珠村鬼乃子が姿を現す。
表情は穏やかだったが、手にした鞭は次の一撃へ備えていた。

「あの太刀は、小粒さんの家へ置いてこられたようですね」

鬼乃子の視線が、竹娘の腰元へ落ちる。
財布を届けるだけのつもりだった竹娘は、武装を《なよ竹》へ残してきていた。

それでも、退く様子はない。
鬼乃子は鞭を引き戻し、丁寧に頭を下げた。

「ここで引いてはいただけませんか」

竹娘は種男を背後へかばったまま、鬼乃子を見つめた。
できれば戦いたくない。
鬼乃子の態度には、そう書いてあるようだった。

しかし、その願いを台無しにする者が、すぐ後ろにいた。

「問答無用!」

可染が竹娘たちを指さした。

「その二人を討て!」

鬼乃子の目から、一瞬だけ光が消えた。
(……はぁ。やっぱり言うと思いました)

種男はポケットに入れていた黒い財布を取りだしながら言った。
「あの、これ……夕星さんの」

「うぁああああ!ニセ月京は囮だぁぁ!武器を隠し持っているぞぉぉ!
 鬼乃子、もう一刻の猶予無し! 殲滅だぁああ!!!」

財布を届けに来た相手を偽装工作の専門家へ昇格させ、可染はパニックになっていた。

鬼乃子は深く息を吐いた。
どうやら平和的な解決は、始まる前に終わったらしい。

「承知いたしました」

鞭を握り直した鬼乃子の声から、先ほどまでの迷いが消える。
竹娘も姿勢を低くした。

「種ピー。財布を持って下がってて」
「でも、竹娘さんは武器がないんですよね?」
「あるよ?」

竹娘は傷のついた腕を前へ出し、静かに構えた。

「私の細見え強靭ウルトラボディ♪」

その答えに、種男は安心するどころか、余計に心配そうな顔になった。
門前を冷たい風が吹き抜ける。

素手で鞭を弾いた竹娘と、その鞭を操る鬼乃子。
二人の間で、空気が鋭く張りつめていった。

「では、参ります」
「お手柔らかに♪」

鬼乃子が鞭を振るう。
再び鉤爪が夜気を切り裂き、竹娘へ襲いかかった。

その後ろでは、事情を最も理解していない可染だけが、満足そうに笑っていた。
一方、届けられるはずだった財布は、種男の腕の中で行き場を失っていた。

第二項 タケノコ vs キノコ

竹娘の足元が、わずかに沈んだ。
次の瞬間、土煙だけをその場へ残し、彼女の姿が消える。

鬼乃子が目を見開いた時には、竹娘はすでに懐へ入り込んでいた。

速い。

驚きは一瞬だった。鬼乃子は身体を半歩ひねり、折り畳んだ肘から鋭い拳を放つ。
拳が竹娘の脇腹へ食い込み、その身体をわずかに浮かせた。

「痛った!」

竹娘は空中で体勢を立て直し、両足から着地する。

「フハハハ! 見たか! 鬼乃子は無敵だ!」

可染だけが、自分の手柄のように胸を張っていた。
鬼乃子は反応しなかった。鞭を振るうと、鉤爪が四方から竹娘へ襲いかかる。

一本の鞭とは思えない軌道だった。複数の蛇が、時間差で獲物へ噛みつくように迫ってくる。

竹娘は後退しながら足先へ淡い光を集めた。
蹴りが光の弧を描き、鉤爪を一つずつ弾いていく。
金属音と火花が、夜の庭へ連続して散った。

鬼乃子の表情が険しくなる。
鞭の間合いで押し切るつもりだった。しかし、竹娘の蹴りは遠距離からの攻撃さえ正確に捉えている。

一方の竹娘も、余裕こそ見せていたが、決め手を欠いていた。
鬼乃子を気絶させる手段はいくつも思いつく。だが、どれも少し力を誤れば、気絶では済まない。

それは鬼乃子も同じだった。

二人とも、相手の力量を見誤っていた。

簡単に制圧できる相手ではない。だからといって、命を奪う技まで使う理由もない。
可染の誤解に付き合って死人を出すなど、あまりにも馬鹿らしかった。

竹娘が地面を強く蹴った。
鞭の軌道をかいくぐり、一気に距離を詰める。

「遠くより近く。守るより攻める方が得意でして」

鬼乃子は鞭を手放した。
長い柄が地面へ落ちるより先に、両拳を構える。

「奇遇ですね。私もです」

二人の姿が残像となって交差した。
竹娘の回し蹴りと、鬼乃子の短い拳打が正面から激突する。

轟音。

衝撃が地面を走り、敷石へ蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。
種男は黒い財布を抱えたまま、二人の攻防を呆然と見つめていた。

だが、このまま眺めているわけにはいかない。
自分たちは戦うために来たのではない。財布を届けに来ただけである。

「あの、二人とも!」

声は拳と蹴りの衝突音にかき消された。
それでも種男は、もう一度息を吸った。

「やめてください! お、親御さんも心配しますよ!」

叫んでから、種男は言葉を間違えたことに気づいた。
竹娘が両親を亡くしていることは、本人から聞いている。

しかし、言い直している余裕はなかった。

火で止める。危険すぎる。
水や氷で止める。それをどうやって出すのか。
風で吹き飛ばす。たぶん騒ぎが大きくなる。
地面をぬかるませる。種男も一緒に転ぶ可能性が高い。

考えだけは高速で回るのに、どの案も役に立たなかった。
その間にも、竹娘と鬼乃子の攻防は激しさを増していく。

「何をやっている!」

可染が震える指で竹娘を指した。

「その小娘を、右からうまく何とかして、さっさと倒せ!」

具体性が、一つもなかった。
鬼乃子は竹娘から目を離さず、怒鳴り返した。

「チビは黙っててください!!!」

「なっ、何だとお!( ノД`)…」

可染の抗議は無視された。
竹娘の蹴りが鬼乃子の防御を崩す。同時に、鬼乃子の拳が竹娘の腹部へ突き刺さった。

互いに一歩も退かない。
竹娘は鬼乃子の腕をつかみ、鬼乃子も竹娘の手首を捕らえた。
そのまま二人は地面へ倒れ込み、上下を入れ替えながら拳と蹴りを打ち合う。

一見すれば互角だった。

しかし、時間がたつにつれて差が現れ始めた。
竹娘の呼吸は乱れていない。
対する鬼乃子の額には汗が浮かび、肩が少しずつ上下していた。

防戦へ回り始めた鬼乃子を見て、可染の顔から血の気が引く。

「うわああん! 鬼乃子が押されてる!」

可染は工場を振り返った。

「こうなったら最終兵器だ! 石笠、起動しろ!」

物陰で待機していた石笠が、勢いよく敬礼する。

「アイアイサー!」

石笠は工場へ向かって走り出した。

種男はその背中を見送り、それから巨大な工場棟を見上げる。

最終兵器。
その言葉に、よい予感を抱ける者は一人もいなかった。
命令した可染を除いて。

第三項 最終兵器

白銀歴1204年11月7日(金) 20:12
株式会社夕星重機製作所 マザー工場内 最深部


石笠は工場の最深部へ駆け込んだ。
巨大な防爆扉の向こうには、薄暗い格納庫が広がっている。
その中央に、未完成の巨体が鎮座していた。

浅間大獣機。
全長五十メートル、重量二万五千トン。

銀色の装甲板は塗装すら終わっておらず、背面からは無数のケーブルが垂れ下がっている。上半身だけなら、重厚な決戦兵器に見えなくもない。
問題は、下半身がほとんど完成していないことだった。

これで一体、何と戦うつもりだったのか。
おそらく設計者も、まだ決めていなかった。

「よし。最終兵器、起動!」

石笠は操作盤へ飛びつき、迷いなくボタンを押した。
迷わなかったことが、最初の失敗だった。
格納庫内の警告灯が、一斉に赤く点滅する。

《射出準備を開始します》

「……射出?」

石笠の指が、押したばかりのボタンの上で止まった。
操作盤には、はっきり書いてある。

《カタパルト射出起動》

「違う! 起動したかったのであって、射出したかったわけではない!」

浅間大獣機には通じなかった。
床下から巨大なカタパルトがせり上がり、未完成の機体を前方へ傾けていく。

インターロックは、まだ実装されていない。
安全装置は、解除以前に接続されていない。
そして、機体にはまともな脚がない。

設計上の不安が、見事な三段重ねになっていた。

「待て待て待て! 下半身が完成してない! お前、立てないぞ!」

立てない機体に、立ち止まるという選択肢はなかった。
カタパルトが轟音を上げる。

浅間大獣機は前のめりに射出され、頭から格納庫の床へ突っ込んだ。
そのまま一回転。
さらにもう一回転。

二万五千トンの巨体が、工場内を猛烈な勢いで転がり始める。

「何で前転してるんだあああ!」

浅間大獣機は配管を引きちぎり、作業足場を巻き込み、格納庫の壁を豪快に突き破った。

火花が滝のように降り注ぐ。
背面の推進器まで誤作動し、石笠を爆風で吹き飛ばした。

「控えめに言って、私もイカれておりましたあああ!」

石笠の反省は、工場の天井付近まで飛んでいった。

地上では、竹娘と鬼乃子の攻防が続いていた。
その間へ、種男が防壁を張って割り込んでいる。

半透明の光が、竹娘の蹴りと鬼乃子の拳を受け止めていた。
本人も防壁の内側にいるため、少なくとも直撃は免れている。
ただし、左右から挟まれている見た目まで安全とは言い難かった。

「へへ……僕も、やる時はやるでしょう?」

種男は額へ汗を浮かべながら笑った。
強がってはいるが、目には涙がにじんでいる。

痛いのか。二人を止められたことがうれしいのか。それとも両方なのか。

「種ピー!」
「小粒さん!」

竹娘と鬼乃子が同時に攻撃を止めた。
種男は防壁を維持したまま、二人を交互に見る。

「財布を届けに来ただけなのに、どうしてこんなことになってるんですか!」

もっともな疑問だった。
しかし、その場に適切な答えを持つ者はいなかった。

可染を除けば。

「俺様の完璧な迎撃作戦だからだ!」
完璧とは、別の世界で違う意味を持つ言葉なのかもしれない。

その直後、地面の下から凄まじい轟音が響いた。

全員が足元を見る。

「何の音ですか?」
種男の問いに、可染は笑みを浮かべた。

「来たな!」
「何がです?」
「最終兵器だ!」

地面が隆起した。
次の瞬間、浅間大獣機が土砂を巻き上げながら地上へ飛び出した。

まともに立てない巨体は、片膝をつくような姿勢で不時着する。
周囲に衝撃波が広がり、工場の窓が一斉に砕けた。

「見よ! これこそ夕星重機製作所の最終兵器、浅間大獣機だ!」

可染は勝ち誇った。

竹娘、種男、鬼乃子は巨体を見上げた。
三人とも、同じ違和感を抱いていた。
動きがおかしい。

頭部が不自然に左右へ揺れ、両腕は別々の方向を向いている。完成していない脚部からは、火花が断続的に噴き出していた。

鬼乃子が冷静に周囲を確認する。

「この一帯に住民がいないことだけは幸いでした」
「それって、つまり」

竹娘が言い終える前に、種男が引きつった笑みを浮かべた。

「これ、僕たち戦ってる場合じゃないですよね?」

その通りだった。
浅間大獣機にとっては、そもそも誰と戦うかなど重要ではなかった。

《機体損傷率、三十パーセントを突破》

機械音声が周囲へ響く。

《周辺の兵器および生物を敵性対象と認定。無差別攻撃を開始します》

「損傷?無差別攻撃?」

竹娘が眉を寄せる。
可染は胸を張った。

「未完成の部分を損傷と誤認しているだけだ! 何も問題はない!」
未完成を損傷と認識する機械の方が、正常なのかもしれない。

浅間大獣機の頭部が開いた。
内部へ青白い光が集まり始める。

《波動砲、充填完了。出力 一パーセント で射出します》

「一パーセントなら大したことないな!」
可染だけが安心した。

次の瞬間、夜を白く塗り潰す閃光が放たれた。
竹娘は種男を抱え、横へ跳んだ。

鬼乃子も反対側へ退避する。

光が地面を斜めに薙ぎ、庭の一部を深く抉り取った。

一パーセントで地形が変わった。
残り九十九パーセントの使い道は、誰にも分からなかった。

「大丈夫、種ピー?」
「は、はい。ありがとうございます」

竹娘の腕の中で、種男が息を整える。
可染は離れた場所で高笑いしていた。

「フハハハ! どうだ、ニセ月京! 小粒少年! これが俺様の最終兵器だ!」

鬼乃子の視線が、可染の背後へ移る。

「自慢なさっている場合ではありません。次は可染様を狙っています」
「え?」

浅間大獣機の頭部が、可染へ向いた。

《珍奇敵性対象を確認》

「俺は、お前のぉ、ご主人様だあああ!」

二射目が放たれる。

「チッ!」
鬼乃子は舌打ちすると地面へ落ちていた鞭を拾い、神通力を流し込んだ。
光を帯びた鞭が閃光を横から打ち、射線を上空へそらす。
白い光が雲を貫き、夜空へ消えていった。

「いぎゃあぁあ!、誰か、誰かこいつ壊してぇえぇえ!」

先ほどまで自慢していた兵器への愛情は、一射で消滅し、泣きじゃくっている。

竹娘と鬼乃子は、救いなき愚物を見る目で可染を見た。
言葉にする必要はなかった。

《対象の生存を確認。波動砲、再充填開始》

浅間大獣機の内部で、先ほどより強い光が渦巻く。

《次回出力、十パーセント。発射まで三十秒》

鬼乃子の表情が変わった。
「地面へ撃たせるわけにはいきません」

今度ばかりは、声に冗談の余地がなかった。
「このままでは周辺一帯が巻き込まれます」

「ななな、何と戦うために作ったんですか、これ!」
種男の叫びに答えられる者はいなかった。

鬼乃子は浅間大獣機の首元を見上げた。
装甲の隙間で、赤い警告灯が明滅している。

「月京さん。あの赤い箇所が発振器の制御部です」

竹娘も視線を上げる。
「珠村さん?」

「過負荷警報が出れば、射出を停止できるはずです」

鬼乃子は鞭を握り直した。
「私が囮になります。砲口を上空へ向けさせますので、その間に制御部を」

「珠村さん」
「ほかに方法はありません」

鬼乃子は迷わなかった。
鞭を振るい、浅間大獣機の頭部装甲へ一撃を加える。

巨体の視線が鬼乃子を追った。
彼女は工場の屋根を蹴り、さらに高く跳ぶ。

《特級敵性対象を上空に確認》

浅間大獣機の砲口が、鬼乃子へ向く。
竹娘は光をまとい、収束放射系神通力を制御部へと狙いを定めた。

その時、機械音声が変化した。

《対策行動を確認》
《射出設定を変更》
《出力五十パーセント。即時発射します》

「あっ、こんにゃろ!機械と思ってバカにしてた!」

竹娘の声と同時に、砲口が地上へ戻った。
狙いは、竹娘と種男。

光が臨界へ達する。
避ければ、背後の工場も山麓も消える。

受け止めれば、全員を守り切れる保証はない。

竹娘は全身の神通力を解放した。
自分一人なら守れる。
だが、種男も、鬼乃子も、可染たちもいる。

誰かを選ばなければ、全員を失う。
その判断を迫られた瞬間、種男の身体から虹色の光があふれた。

「種ピー?」

光は白く収束し、巨大な龍となって夜空へ顕現する。
龍が身体を巡らせ、竹娘も鬼乃子も可染も、工場の一部さえ包み込む巨大な防壁を作り上げた。

波動砲が直撃する。

白い閃光と防壁がぶつかり、不死山の麓が昼のように明るく染まった。

種男は両足を踏ん張り、両手を前へ突き出していた。
全身が震えている。
それでも、防壁は崩れなかった。
龍が咆哮する。

閃光の向きが変わった。
膨大な光が上空へ弾かれ、雲を貫き、宇宙空間へ消えていく。

静寂が訪れた。

誰もが、種男を見ていた。
本人だけが、自分に何ができたのか理解していない顔をしていた。

その時、破壊された地面の穴から石笠が這い出してきた。
髪は逆立ち、白衣は焦げ、眼鏡の片方が割れている。

「閣下……」
石笠は震える手で、リモコンを掲げた。

「控えめに言って、私もイカれておりました」

反省としては遅い。だが、まだ間に合った。

「次は撃たせません!」

石笠が停止ボタンを押す。

《警告。発振器過熱》
《保護機能により、射出を強制停止します》

浅間大獣機の全身から火花が噴き出した。
内部へ逆流したエネルギーが装甲を押し広げ、機体がゆっくりと前へ傾いていく。

「止まった……?」

種男の言葉へ答えるように、未完成の脚部が崩れた。
浅間大獣機は工場へ向かって倒れ込む。

可染の顔から血の気が引いた。

「そっちは駄目だ! 工場がある!」

巨体は忠告を聞かなかった。
工場を巻き込み、倒壊。

次の瞬間、浅間大獣機は巨大な爆発を起こした。
爆風が敷地全体へ広がる。

竹娘、種男、鬼乃子、可染、石笠の身体が、そろって宙を舞った。
誰も傷つく心配のない、見事な放物線だった。

可染は煙を上げながら地面へ落ち、崩れゆく工場へ手を伸ばす。
「工場があああああ!」

続いて豪邸の屋根が潰れ、庭の松が吹き飛び、立派だった門がゆっくりと倒れた。
夕星重機製作所の最終兵器は、敵を一人も倒さなかった。

代わりに、製造元の工場と社長宅と庭園を、ほぼ完璧に破壊した。
最終兵器という名称に、偽りはなかった。

何を最終的にする兵器なのか、誰も確認していなかっただけである。

第四項 財布を届けに来ただけです

爆煙の中で、可染は膝をついていた。

目の前に広がるのは、夕星重機製作所だったものの残骸である。
工場は崩れ、豪邸は潰れ、庭園は掘り返されていた。世界征服の拠点というより、征服された後の現場に近い。

可染の頭に、夕星重機八十二年の歴史が走馬灯となって流れていく。

徹夜で図面を引いた日々。
人工知能《KISARA》と鬼乃子を創造した日。
社員三名で出掛けた淡児島旅行。
石笠が経費で買った高級コーヒーメーカー。

思い出の大半は、会社の歴史というより小規模事業者の悲哀だった。

「終わった……」

可染は瓦礫へ両手を伸ばした。

「俺の工場も、家も、世界征服の夢も……全部……」

土煙の向こうから、鬼乃子が歩いてきた。
銀髪も衣服も土まみれだったが、声だけは平常運転である。

「不幸中の幸いと申しましょうか、受注残はございません。
 先週の京都星海楼向けを最後に、既存案件はすべて出荷済みです」

可染が涙目で振り返った。

「そ、そうか。それだけは良かった……」

一瞬だけ経営者としての安堵が浮かぶ。
すぐに消えた。

「いや、良くねえよ! 俺の家は!? 庭は!? 盆栽は!?」

可染は瓦礫の中を見回した。

「松風(しょうふう)くんはどこだ!」

鬼乃子は足元の瓦礫をどかし、黒焦げになった盆栽鉢を拾い上げた。
枝はなく、土もなく、鉢だけが残っている。

「こちらでしょうか?」
「松風くーん!」

可染は盆栽鉢を抱き締め、その場へ崩れ落ちた。
世界征服の夢より、盆栽への愛情の方が具体的だった。

そこへ石笠が、瓦礫を押しのけながら這い出してきた。
白衣は焦げ、眼鏡の片方にはひびが入っている。

「閣下……控えめに申し上げて、私も、、、イカれておりました」

二度目の反省だった。
一度目が何の役にも立たなかった点を除けば、殊勝な態度である。

可染は松風くんを抱えたまま石笠を指さした。

「お前のせいだ!」

石笠の肩が跳ねる。

「いや、違う。命令したのは俺だ……」

可染は指を下ろした。

「でも起動したのはお前だ。いや、そもそも最終兵器を作らせたのは俺で……」

責任の所在を探して、可染の指が石笠と自分の間を何度も往復する。
最終的に、自分の顔を指したところで止まった。

「あああああ! 誰かのせいにしたいのに、俺の顔しか浮かばんのだ!!!」

自責の念としては立派だった。
騒音としては迷惑だった。
鬼乃子は深いため息をつき、可染の肩へ手を置いた。

「石笠さん一人へ責任を押しつけない点だけは、ご立派です。まずは深呼吸なさってください」

可染は大きく息を吸った。

「すぅぅぅ……」

ゆっくりと吐く。

「はぁぁぁ……」

少し落ち着いたらしい。

「……工場、直して」
「無理です」

癒やしの時間は終わった。鬼乃子は倒壊した工場を見渡した。

「とはいえ、これまでの蓄財を使えば再建は可能です。ただし、二年ほど必要かと」

可染は恐る恐る尋ねた。

「二日は?」
「二年です」
「間を取って二週間」
「何と何の間ですか」

会話は成立しなかった。

少し離れた場所では、竹娘が服についた灰を払いながら立ち上がっていた。

「世界最高峰の科学技術じゃない!?」

瓦礫と化した工場を眺め、言葉を探す。

「なんか……すごいものを見たよね、種ピー」

返事がない。竹娘が振り向く。
種男は数歩離れた場所に立ち、肩で激しく息をしていた。

「種ピー?」

その肌が、夜の闇の中で鈍く光っている。
人の肌ではない。
控えめな光沢を帯びた銀色へ変わり、首筋から頬にかけて、細い亀裂が走っていた。
ひび割れの奥には光がなかった。

代わりに、霧状の黒い瘴気が、音もなく漏れ出している。

竹娘の顔から笑みが消えた。

「種ピー、それ……」

一歩、近づく。

種男が竹娘へ顔を向けた。
その瞬間、銀色は波が引くように薄れた。
亀裂が閉じ、黒い瘴気も肌の奥へ吸い込まれていく。

数秒後には、いつもの種男へ戻っていた。
竹娘は言葉を失ったまま立ち止まる。

見間違いではない。
先ほどの異変は、種男自身も知らない何かが、身体の内側から現れたものだった。

種男はゆっくり呼吸を整えた。
「はい。そうですね」

いつもの声だった。
「次は、もう少し安全なものを見たいですけど」

冗談めかして笑う。
竹娘も笑い返そうとしたが、うまくいかなかった。

問いただしたいことが、喉元まで上がってくる。
だが種男は、何事もなかったように可染へ歩いていった。

その手には、黒い財布が握られている。
爆発にも、龍の防壁にも、巨大兵器の暴走にも耐え抜いた財布である。
持ち主の会社より頑丈だった。

「あの、これ」

種男は瓦礫の前で泣いている可染へ財布を差し出した。

「うちの店に忘れていました。割引券も入れておいたので、また来てくださいね」

可染は盆栽鉢を抱えたまま固まった。

「……財布?」
「はい。財布です」

種男はにこやかに頷いた。

可染は差し出された財布と、消滅した工場と、種男の顔を順番に見た。

この大惨事を招いた理由を、ようやく思い出したらしい。

「財布を……届けに来ただけ?」
「はい」
「俺を倒しに来たわけではないの?」
「はい」
「秘密基地を破壊しに来たわけでも?」
「そちらは自分たちで壊していました」

可染は震える手で財布を受け取った。

「……ありがとう」

種男は満足そうに頷いた。

鬼乃子と石笠は、そろって可染へ目を向けた。
二人の認識は、珍しく完全に一致していた。
この工場は、財布一つのために滅びた。

竹娘だけは笑わなかった。笑えなかった。
種男の背中を見つめながら、先ほど消えた銀色の肌と、亀裂から漏れた黒い瘴気を思い返していた。

瓦礫の中では、可染が財布を開いている。

「あっ、本当に割引券が入ってる」

「良かったですね」
鬼乃子の声には、感情がなかった。

「うん……」

可染は割引券を大切そうに財布へ戻した。
工場も、豪邸も、庭園も失った。

それでも《なよ竹》の日替わり定食は、少し安くなる。
今夜の収支は、どう計算しても赤字だった。

第五項 京都への帰路

白銀歴1204年11月7日(金) 21:00
株式会社夕星重機製作所前 ほぼ更地


工場も豪邸も庭園も消し飛び、夕星重機製作所は見事な更地になっていた。
正確には、瓦礫と煙と黒焦げの盆栽が残っている。
更地より少し情報量が多かった。

鬼乃子は竹娘と種男の前へ立ち、深々と頭を下げた。

「このたびは、誠に申し訳ございませんでした。京都までお送りいたします」

すると、崩壊を免れた地下ハッチが開き、一台のミニバンがせり上がってきた。
車体には、大きく《非常用車両》と書かれている。
会社も邸宅も庭園も非常事態になった今、これ以上ふさわしい車はなかった。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

種男が頭を下げ、竹娘もそれにならった。
鬼乃子が運転席へ乗り込み、種男と竹娘が後部座席へ収まる。
これで出発できる。

はずだった。

助手席の扉が開き、可染が当然のように乗り込んできた。
さらに石笠まで最後列へ滑り込む。
鬼乃子はハンドルを握ったまま、ゆっくり二人を振り返った。

「なんであなた達も来るんですか!!!」

「みんなで少年の料理食べようよぅ。」

可染は黒焦げの盆栽鉢を抱え、晴れやかに宣言した。
先ほどまで工場の残骸を前に泣き崩れていた人物とは思えない回復力だった。

「あれだけの騒ぎを起こして、また小粒さんのお店へ行くおつもりですか!?
 この恥知らず!厚顔無恥の生きた見本!!!」
「割引券ももらったし」

財布から取り出した割引券を、可染は誇らしげに掲げた。
一食分の割引と引き換えに、工場一棟と豪邸一軒と巨大兵器一機を失っている。
採算について考えてはいけなかった。

「京都へ着いたら、まず謝罪してください」
「注文してからでもいい?」
「謝罪が先です」
「注文だけ先に」
「謝罪です」

交渉は平行線だった。

その間に、最後列の石笠が小さく手を上げた。

「提案がございます。皆さまお疲れでしょうから、今夜はこの車で休み、明朝に出発してはいかがでしょう」

一同は顔を見合わせた。
竹娘も反対しなかった。

戦闘の疲労はもちろん、種男が防壁を張った後に見せた異変も気に掛かっている。
今すぐ長時間移動させるより、一度休ませた方がよさそうだった。

「では、車中泊にいたしましょう」

鬼乃子が決定を下した。
可染は助手席、鬼乃子は運転席。石笠は最後列を確保した。

残された後部座席には、種男と竹娘が並ぶ。
座席を倒すと、二人の距離は思った以上に近くなった。

「狭かったら言ってね、種ピー」
「竹娘さんこそ。僕は小さいので大丈夫です」

「本人の前で小さいと言うな!」
助手席から可染が抗議した。

誰も可染の話はしていなかった。

車内の照明が消えると、更地になった工場跡へ静けさが落ちた。

可染は盆栽鉢を抱えて眠り、石笠は焦げた白衣のまま寝息を立てている。
鬼乃子だけは運転席で端末を開き、被害総額の計算を続けていた。
時折、何とも言えないため息が聞こえた。

竹娘は眠れず、座席へ身体を預けていた。

隣では種男が目を閉じている。
呼吸は落ち着き、肌もいつもの色へ戻っていた。

それでも竹娘の目には、先ほどの光景が焼きついている。
銀色へ変わった肌。
全身に走った亀裂。
そこから漏れ出した黒い瘴気。

竹娘が声を掛けると、異変は跡形もなく消えた。
あれは何だったのか。

種男の内側にいる龍と関係しているのか。それとも、大伴家が守ってきた秘密そのものなのか。
隣で種男が小さく身じろぎした。

竹娘は思考を止め、彼の寝顔へ目を向けた。
今は眠らせておこう。

目を覚ましたら、体調を確かめる。話してくれるなら聞く。
話したくないのなら、無理に聞き出さない。

そう決めても、胸に残る不安は消えなかった。

竹娘は毛布の端を引き、種男の肩へそっと掛けた。
その時、種男がうっすら目を開けた。

「……竹娘さん?」
「ごめん、起こした?」
「大丈夫です」

種男は眠そうに笑った。

「今日、いろいろありましたね」

ありすぎた。
車を爆破され、巨大兵器に狙われ、龍で波動砲を弾き、届け物一つのために会社が更地になった。
一日分の出来事としては過積載である。

竹娘は小さく笑った。
「うん。いろいろあったね」
「でも……楽しかったです」

それを楽しい思い出へ分類してよいのか、竹娘には判断できなかった。
けれど、種男がそう言うなら悪くない気もした。

「私も」

竹娘は毛布を種男の肩まで掛け直した。

「おやすみ、種ピー」
「おやすみなさい」

種男は再び目を閉じた。
竹娘も隣で身体を丸める。

車内は狭く、座席は硬く、寝心地も《なよ竹》の布団には遠く及ばない。
それでも、不思議と落ち着いた。

翌朝。

最初に目を覚ました鬼乃子が、車内を見回した。
可染は盆栽鉢を抱き、石笠は可染の肩へ寄りかかっている。

後部座席では、竹娘と種男が一枚の毛布を分け合って眠っていた。
鬼乃子は何も言わず、そっと車のエンジンをかけた。

「うぅ……松風くん……」

可染が寝言を漏らす。

「盆栽は京都へ持ち込まないでください」
「松風くんは家族だぞ!」

一瞬で起きた。

石笠も飛び起き、天井へ頭をぶつける。
「出発ですかな!?」

「そうです。京都へ戻ります」
鬼乃子はミニバンをゆっくり発進させた。
助手席では可染が黒焦げの盆栽へ話しかけ、最後列では石笠が朝食の希望を述べ始める。

後部座席では、騒ぎに起こされた竹娘と種男が、眠そうな顔を見合わせた。
「……朝から元気だね」
「いつも、こんな感じなんでしょうか」

運転席の鬼乃子が即答した。
「残念ながら」

ミニバンは朝の不死山を離れ、《なよ竹》へ向かって走り出した。

第六幕 月影に残るもの

第一項 最後の夜

白銀歴1204年11月8日(土)22:00

消灯後の部屋には、障子越しの月明かりが淡く差し込んでいた。

竹娘と種男は、並べた布団へ横になっている。
二人の間には、人一人が入れそうな隙間があった。

竹娘は身体の横で両手を揃え、天井を見つめていた。少しでも動けば、種男との距離を意識していることまで伝わってしまいそうだった。

静かな夜気の中で、種男がぽつりと言った。

「僕、今まで友達がいなくて」

竹娘は目だけを種男へ向けた。

「だから、この一週間……本当に、ありがとうございました」

感謝より、別れの言葉に聞こえた。
まだ一緒にいるのに、種男はもう終わったことのように話している。
竹娘は胸の奥が締めつけられるのを感じた。

「種ピーは、自分で思ってるほど一人じゃないよ」

種男がわずかに顔を向ける。
竹娘は天井を見たまま続けた。

「お店の人たち、みんな種ピーのこと知ってた。魚屋さんも、野菜屋さんも、あの騒がしい人たちも」

好意の示し方に問題のある者もいたが、今は脇へ置いておく。

「夕星さんたちだって、毎日来るでしょ。本人は監視って言い張ってるけど、どう見ても種ピーの料理を食べたいだけだし」

種男が小さく笑った。
その声に励まされ、竹娘は言葉を重ねた。

「マロ君とも、きっと仲直りできるよ。種ピーは怖がってたのに、ちゃんと話そうとしてた。今日だって、私と珠村さんの間に入ってくれた」

特別な力があるからではない。
傷つくかもしれないのに、それでも誰かを止めようとした。
その優しさを、竹娘は知っている。

「料理を作る時も、誰かに喜んでほしいって顔してる。種ピーは、自分から人を遠ざける人じゃないよ」

だから、心配しなくてもいい。
きっとこれから友達はできる。
そう言いたかったはずなのに、竹娘の胸へ別の言葉が浮かんだ。

自分もいる。

けれど、それだけが声にならなかった。

「それに……」

竹娘は一度、口を閉じた。
明日の公務が終われば、ヒノモトを離れる。

竹娘は布団の上で、種男との間に残した隙間へ手を置いた。
指先だけを、ほんの少し近づける。

「少なくとも、この一週間は」

声がかすれた。

「種ピーと一緒にいられて、私は楽しかったよ」

種男は何も答えなかった。
竹娘が不安になりかけた頃、布団の上を何かがかすかに動いた。

種男の手だった。
触れはしない。
ただ、竹娘の指先からわずかに離れた場所で止まる。

「僕も、楽しかったです」

その距離が、竹娘にはありがたかった。
近すぎず、遠すぎない。
今夜の二人には、それで十分だった。

「おやすみ、種ピー」

「おやすみなさい、竹娘さん」

種男は静かに目を閉じた。
竹娘は天井へ視線を戻したが、もう先ほどのように身体を固くしてはいなかった。

手だけは、二人の間へ置いたままだった。
その夜も、竹娘はなかなか眠れなかった。
ただし今度の理由は、警戒心ではなかった。

第二項 別れの朝

白銀歴1204年11月9日(日) 8:29

晩秋の朝。
低い陽射しが、輝夜文化ホール前の歩道を淡く照らしていた。

「ここまででいいよ」

竹娘が立ち止まると、種男も足を止めた。
《なよ竹》から、そう遠くない場所だった。それなのに、二人で歩いた道がひどく短く感じられた。

言いたいことは、いくらでもある。

昨夜のこと。
この一週間のこと。
また会いたいということ。

けれど、どれも口にすれば、別れが本物になってしまいそうだった。

「……また、会えますよね?」

種男の問いに、竹娘は笑ってみせた。

「うん。またね」
自分でも驚くほど、きれいな声が出た。

竹娘は種男へ背を向け、一歩を踏み出した。
振り返ることはできなかった。
もし種男がまだそこにいたら、きっと帰れなくなるから。

これでいい。そう言い聞かせて、一歩を踏み出す。

第三項 輝夜文化ホール

白銀歴1204年11月9日(日) 10:00

輝夜文化ホールの大会議室では、長いテーブルを挟み、ヒノモトとルナルナの代表団が向かい合っていた。

議題は、かぐや姫を軸にした京都府の観光振興と、両国の娯楽産業における提携である。
ヒノモト幕府は今回、提携先としてコムニア星州連邦ではなく、ルナルナを選んだ。
もっとも、それはルナルナの提案が抜群に優れていたから、というだけではなかった。

「いやあ、ルナルナさんを選んだというよりもですね」

ヒノモト幕府内閣総理大臣の番長 漁太郎(ばんちょう りょうたろう)は、手元の資料をめくりながら苦笑した。

「コムニアさんの条件が、少々厳しかったと申しますか」

隣に座る京都府長、オッキーナ・重蔵(じゅうぞう)も頷く。
「かぐや姫の国籍をコムニアに変更しろ、現代を舞台にしろ、恋人役にはコムニア軍人を起用して、しかも主役にしろ、と」

次第に暴露大会の様相を呈してきた。
「そこまで変えてしまったら、京都の町おこしになりませんからなあ」

会議室に小さな笑いが起こる。
番長総理は、列席する記者たちへ慌てて両手を振った。

「ただいまの発言は、あくまで架空の交渉事例ということでお願いします」

記者たちは笑いながら端末へ入力を続けた。どうやら、お願いを聞くつもりはないらしい。

ルナルナ側の中央には、国王の天峰 篁(あまみね たかむら)が座っていた。
その右隣では、竹娘が背筋を伸ばし、静かに会談を見守っている。

篁は穏やかな笑みを浮かべた。

「ヒノモトの映像制作は、他国で失われつつあるアナログ技術と、最新のデジタル技術を両立させています。我が国にとっても、願ってもない機会です」

総理と府長は、満足そうに頷いた。
双方の利害は一致している。
少なくとも、コムニア軍人が主役の現代版かぐや姫を撮影するよりは、話がまとまりやすかった。

やがてオッキーナ府長の視線が、竹娘へ向いた。

「それにしても、かぐや姫の末裔である竹娘さんを、こうして京都へお迎えできたことは、本当に光栄です」

竹娘は席を立たず、控えめに一礼した。
今日の彼女に求められているのは、余計な発言をせず、月京家の象徴としてそこにいることだった。

今のところ、その役目は完璧に果たしている。
もっとも、竹娘が黙っている方が会談が平和に進むと判断された可能性も、わずかながら存在した。

「そこで、一つご相談があるのですが」

府長は期待を込めて身を乗り出した。

「月京さん。京都を舞台にした映画へ、出演してみませんか?」

会議室がざわめいた。
番長総理は苦笑し、記者たちは一斉に竹娘へ端末を向ける。

突然、外交特使から映画出演者へ転職する機会が訪れた。
竹娘は一瞬だけ固まった。

隣の篁が横目で彼女を見る。
断っても構わない。だが、できれば穏便に。
その程度の視線だった。

竹娘は小さく息を吸い、控えめに笑った。

「お気持ちはうれしいのですが、私、信じられないほど演技が下手なんです」

府長が目を瞬かせる。

「学生時代の学芸会でも、いつも木の役でした」

一拍遅れて、会議室が笑いに包まれた。
番長総理は肩を震わせ、記者たちも端末を下ろして笑っている。
隣では篁まで、珍しく声を立てていた。

「木ですか」

府長は笑いをこらえながら、竹娘を改めて眺めた。

「それはそれで、かなり存在感のある木になりそうですが」
「動かなければ、何とか」
「木は動きませんからなぁ」

そこで再び笑いが起きた。
府長は目元を拭い、ようやく姿勢を戻した。

「もちろん、無理強いはいたしません。気が変わりましたら、いつでもお声がけください」

竹娘はもう一度、静かに頭を下げた。
映画出演の話は流れた。
代わりに、かぐや姫の末裔が学芸会で木を演じていたという、観光戦略とは何の関係もない情報だけが、記者たちの端末へしっかり記録された。

会談の空気は、先ほどまでよりずっと柔らかくなっていた。
竹娘は再び背筋を伸ばし、何事もなかったように篁の隣へ控えた。

本日の公務における彼女の最大の功績は、各国の協力関係ではなく、優秀な木として会議を和ませたことになるかもしれなかった。

第四項 本音に近い嘘

会談を終えた一行は、そのまま一般公開の記者会見場へ案内された。
竹娘が通路へ姿を見せた瞬間、無数のフラッシュが弾けた。

月京家は現在も国家武術を担っているのか。
初めて訪れたヒノモトをどう思うか。
京都にはいつから滞在していたのか。

質問が一斉に飛び交う。
ヒノモトの為政者たちよりも、ルナルナ王よりも、竹娘へ多くの視線が集まっていた。

かぐや姫の末裔。

その肩書が、政策や条約よりも人々の想像をかき立てたからだ。

竹娘は静かに会釈し、壇上へ進んだ。
客席の最前列には報道陣と文化関係者が並び、その後方を一般市民が埋めている。

ヒノモトの為政者たちよりも、篁よりも、竹娘に最も多くの注目が集まっていた。

その最後尾の席に――当日入場した種男の姿があった。

もう一度だけ、竹娘の姿を見たかった。
ただそれだけのために、ここまで来たのだった。

やがて、一人の記者が竹娘へマイクを向けた。
「初めての京都はいかがでしたか?」

竹娘は一瞬、答えに迷った。
用意された言葉ならある。
歴史ある街並み、豊かな文化、温かな歓迎。特使としては、それを答えるべきだった。

けれど、口から出たのは別の言葉だった。

「実は、お忍びで数日前から来ていたんです」

会場に小さなどよめきが広がる。

「そこで、とっても美味しい料理を出すお店を見つけたんです」

竹娘の声が、わずかに柔らかくなった。

「また、会いに」

言葉がこぼれかけた。竹娘は息を止め、微笑みで取り繕った。

「……食べに行けたら、と思っています」

記者たちは店の場所を尋ね、会場には明るい笑いが起きた。

その中で、竹娘はふと顔を上げた。
大勢の人の向こう。

そして――
最後尾の種男と、視線が重なる。
ほんの一瞬だった。

竹娘の脳裏に、種男との思い出が一気に駆け巡る。
竹林で出会った夜。
湯気の向こうで笑う種男。並んで歩いた商店街。夜の湖。龍の背で触れた温もり。

どれも、ほんの一週間の出来事だった。
それなのに、ずっと前から知っていた記憶のように胸へ残っている。

種男は驚いたように目を見開き、それから静かに微笑んだ。
竹娘も、誰にも気づかれないほど小さく笑い返した。

(種ピー……
 いつか素敵な恋人ができて、
 私のことなんか忘れちゃうんだろうな)

言いたかった。また会いたい。忘れないでほしい、と。

けれど、壇上の竹娘は月京家の特使で、最後列の種男は京都の小さな料理店を守る少年だった。
今は、言葉を交わせない。

だから、ふたりは微笑むことしかできなかった。
その短い微笑みだけが、会場の騒めきから切り離されたように、ふたりの間へ残った。
しかし――
そのひとときで、ふたりは確かに心を通わせていた。

記者会見が終わり、竹娘は篁とともに退場した。
扉が閉ざされる直前まで、彼女は振り返らなかった。

人々が去った後も、種男は席に残っていた。
竹娘の立っていた壇上には、もう誰もいない。

種男は静かに立ち上がった。

(竹娘さん……いつか素敵な男性のものになっちゃうのかな)

そう考えると、ひどく胸が痛んだ。

種男は拳を握りしめ
気丈に足音を響かせながら
輝夜文化ホールを後にした。

ホールの外には、冬の近づく京都の空が広がっていた。

終幕 おかえりなさい

白銀歴1204年11月30日(日) 14:29

休日の《なよ竹》は、昼を過ぎても静かだった。
昼食の時間帯を終えてひと段落した種男は厨房で仕込みをしながら、朝のニュースに映っていた竹娘の姿を思い返していた。

王の隣へ立つ彼女は、店で笑っていた時とは別人のように遠く見えた。

もう会えないのかもしれない。
そう思った時、入口の鈴が小さく鳴った。

カラン。

種男が顔を上げる。
開いた扉の向こうに立っていたのは――

竹娘だった。

少し息を弾ませ、黒髪をわずかに乱している。
それでも、種男を見つけた瞬間の笑顔は、記憶の中にあるものと同じだった。

「今日、オフなんだ!」

種男は動けなかった。その一言で、胸が一気に熱くなる。
(……夢じゃない)

会いたいと願っていた人が、本当に目の前へ戻ってきた。

「竹娘さん……」

名前を呼ぶと、竹娘の笑顔がさらに明るくなる。

「うん。正真正銘、純正仕様の竹娘さんです」

竹娘は急ぎ足で店へ上がった。それから、少し照れたように種男を見上げる。

「……来ちゃった」

種男の胸へ、抑えきれない喜びが広がった。
竹娘はいつものカウンター席へ腰を下ろし、頬杖をついた。

「ねえ、種ピー」
「はい」
「私、あの日……ちゃんと言えなかったことがあって」

竹娘はカウンターの木目を指先でなぞった。
「また、ここへ来られて……」

あと少しのところで、言葉が止まった。
「……うん。そんな感じ」
ひどく曖昧な着地だった。
竹娘はごまかすように笑ったが、耳まで赤くなりかけていた。

種男は、その言葉の続きを無理に求めなかった。

「僕は……嬉しいです。また来てくれて」

竹娘の肩が小さく跳ねた。

「えひっ!?」
自分でも予想していなかった声が出た。
竹娘は慌てて口元を押さえ、それから恥ずかしそうに笑った。

「い、今のは忘れて」
「どうでしょう。難しいです」
「そこは忘れてよ」

それでも、種男の言葉は胸の奥へ残った。

自分が来たことを、種男が喜んでくれている。
それだけで、言えなかった言葉まで届いたような気がした。

竹娘は種男を見つめ、今度は少しだけ素直に笑った。

「じゃあ……今日も、おいしいものを作ってくださいますか?」
「もちろんです」
「あの時みたいに?」
「はい。あの時より、おいしいものを作ります」

種男は厨房へ戻りかけたが、竹娘の声に呼び止められた。

「種ピー」

振り返る。
竹娘はカウンターへ両手を置き、照れを隠すように笑っていた。

「ううん、何でもない」

胸の中にあった言葉は、どうしても最後まで言えなかった。
(……ねぇ、種ピー。
 私、ヒノモトに来てよかった。
 あなたに会えて……ほんとによかった。)

ふたりの間に流れる空気は、一週間前よりもずっと近くて、ずっと――

厨房から包丁の音が響き始める。
竹娘は頬杖をつき、懐かしいその音へ耳を澄ませた。

借り物の名前であっても、戻ってきてよい場所がある。
迎えてくれる人がいる。
その事実が、竹娘の胸の奥をゆっくりと温めていった。
(……ただいま、種ピー)

その想いが届いたかのように、包丁を握る種男の胸にも、理由の分からない温もりが灯っていた。
(ああ…この人がいない間、僕の心はこんなにも静かだったんだ)

そして、胸の奥でそっと呟いた。
(……おかえりなさい)

…

……

宇宙の裏では、今も古い陰謀が息を潜めている。
それでも未来が動き始めたのは、大軍が進撃した時でも、歴史的な宣言が響いた時でもなかった。

一人の少女が帰り、一人の少年が迎えた。
その静かな「ただいま」と「おかえり」から、世界は確かに変わり始めていた。

「竹取合戦」完

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